2005年11月23日水曜日
もしも一日が15分だったならば
「もしも一日が15分だったなら」という問いは、実際に一日が15分であった人間に対しては質問としての体を成せない。なぜならばそれはifではなくてrealであるからだ。
もしも一日が15分だったなら、僕は何を考えるのだろう。
もっと真剣に自分自身の考えている事について考えられるのかもしれない。
もしも一日が15分だったなら、僕は何を求めるのだろう。
もっと真剣に自分自身が欲している物を、欲することが出来るのかもしれない。
もしも一日が15分だったなら、僕は何を書けるのだろう。
もっと真剣に自分自身が書きたい事を、書き続けられるのかもしれない。
もしも一日が15分だったなら、僕は何を憎むのだろう。
もっと真剣に自分自身が憎んでいる人穴一つ、呪うことが出来るのかもしれない。
けれども現実はそうではない。
一日は24時間で、96個ぶんの毎日が、凄い速度で消えてゆく。一日三ヶ月。
僕は今日も三ヶ月、何も考えられず、何も欲せず、何も書けず、何も憎めず生きてきた。
24時間は長すぎて、200時間は短すぎる。
自分が脈打つテンポについていけない。
念じて頭痛を消そうとしている時だけかろうじて、己の鼓動と付き合える。
そうじゃない時僕の心臓ここにはなくて、どこかでくべられ煮られてる。
渋皮のついたまま、物凄い量の砂糖で。
一日が15分だった頃、僕は何をするのも真剣だった。
タンスの引き出しを引くのも、壺の中をのぞき込むのも、そして逃げ出すのも真剣だった。
どこに何が入っているかを体で覚えていて、1度も間違った事なんて無かった。
僕は人生に対して誠実だったし、とても真面目に生きていた。
そうやって何周も何周もしたのだけれど、僕にはその頃の記憶がない。
あの頃は生きるだけで精一杯だったのだと思う。
何一つうまく思い出せない。
多分幸せだった、のだと思うのだけれど。
決別を経て酷く間延びした人生の中で焦燥感を見失う。
終わってしまったものはもうどうしたって戻らないのだ。
さよならを言われてから一年が経った。
存在しない僕は今、何を考え何を言うのか。
一生0秒。
問答無用。