2005年11月13日日曜日

愛は死んでいない。



愛のエプロンという1つの偉大なテレビ番組は我々に1つの物事を教えてくれる。
それは、料理とは何であるかという事だ。




「料理は愛だ、愛があればLOVE is OK。」という愛のエプロンを象徴する言葉は、それを明示的に指し示していると言ってよい。




即ち、料理とは愛である。
・・・という事、ではない。








ご存じの通り、愛のエプロンが描き出す風景は常に「料理とは技術」という残酷な結果だ。料理というフィールドにおいて、他の一切は何の役にも立たない。愛だの心だの誠意だのといったものは何の役にも立たないし、誠実さや生真面目さといったものすらそこでは意味がない。


全ては技術である、という事だけが指し示されている。
それは、「料理は愛ではない」というメッセージであり、「料理は心や」という明らかな嘘を平然と曰う神田川俊郎へのカウンターカルチャーこそが愛のエプロンであり、我が国において真実を示唆するテレビ番組というものが仮に存在するとするならば、それは愛のエプロンただ1つである。




技術が全てなのは、なにも料理だけの話ではない。
即ち、全てのあらゆる物事の全ては、技術なのだ。




例えばブログについても同じである。

ブログにとって大切なのは毎日の更新であるとか、筆力であるとか、ユーモアであるとか、あるいは人間力である、などということをまことしやかに語る輩が居るが、それらは全てが嘘なのである。即ち、ブログあるいはブロガーに求められる能力というのは唯一にしてただ一つ、技術だけなのである。

仮に「心あるブロガー」というものが存在しているならばそれは心あるブロガーではなく、心あるブログを書く技術を有している人間に過ぎないし、「良識あるブログ」というものが存在しているならばそれは良識あるブログではなく、良識あるブログを作り上げる技術を有している人間に過ぎない。

無論のこと、「誠実なブロガー」というものが存在しているならばそれは誠実あるブロガーなどではあなく、誠実なブロガーを演じる技術を有している人間がいるに過ぎず、「面白いブログ」などというものがもしも、仮に存在しているとすれば、それは言うまでもなく面白ブログではない。そこにあるのはただ一つ技術だけなのである。

即ち、我々が「それ」と呼んでいるものの正体は実は「それ」ではなく、「それを装う技術」でしかないのだ。上手く装えない奴は「それではない」と見抜かれて滅び、上手く装い振る舞えるだけの技術を持った人間だけが生き残る。

そして、本物の「それ」は誰の目にも捉えられる事無く、存在を確認することも、存在を確認される事も許されないままで、技術によって無限に生成され続けられる「それ」のクローンの出来損ないの死体に紛れて消えてゆくのだ。




また、「人気ブログ」というものが仮に存在しているならばそれは人気ブログを求める馬鹿読者どもの無駄なアクセスという弛まぬ技術の結晶であり、「αブロガー」というものが存在しているならばそれは「αを作る技術を持った人間と、αを作る技術は無いがαを作り上げたいβ達」の共同作業によって作り上げられたものでしかない。

言うまでもなく、「愛あるブログ」などというものが万が一、もしも仮に存在するとするならば、それは愛あるブログなどではない。愛のある場所に愛は無いのだ。




人が愛であると思っているそこにあるものはただ一つ、技術である。
そして、それは悪いことでも良いことでもない。

人が夢であると思っているそこにあるものはただ一つ、技術である。
もちろん、それも悪いことでも良いことでもない。

人が心であると思っているそこにあるものはただ一つ、技術である。
無論、それは悪いことでも良いことでもない。




重ねて言うまでもなく、人々がそれであると思っているのはそれではなく、技術なのだ。そして重ねて言うが、それは悪いことでも良いことでもない。人間とはそういうものなのである。世の中の全ての物事は、そういうものなのである。

その点において我々が息づくこの世界は非常にフェァアだ。
技術を得た者だけが賞賛され、技術無きものは嘆き滅びる。
技術を手にした者が自由になり、技術無きは不自由に死ぬ。
技術を持つ者だけが栄光を手にし、技術無きものは消える。
技術を有する者だけが幸せを手にし、技術無きものは詰む。

即ち、この世界は光と希望で満ちており、可能性に溢れている。
EZな技術さえ身に付ければ、あらゆる物事はうまくいくのだ。




同時に、あらゆる物事は存在する事を許されぬというのもまた真だ。
あらゆる物事は「その技術」でしかなく、本当のあらゆる物事は「その技術」として存在をするか、存在しないものとして存在するかの二択を歩むこととなる。




即ち、仮に世界に愛というものが存在するとするならば、それは一切の言葉も一切の行動も伴わない、誰にも知られる事の無い、そしてまた誰も知ることの出来ない形でしか存在しえないのである。仮にそうでなくなった場合、それは技術というフィールドでの秩序無き技術勝負でしかない。その点において「愛は存在する」と言う事も出来るし、「愛は存在しない」という事も出来る。








つまり、「愛は死んだ」という事も出来るし、「愛は死んでいない」という事も出来る。