2005年11月24日木曜日

「しあわせ語りをしているしあわせなブログ」こそが痛々しいイタイ系ブログの頂点に立つジャンルであると思う理由。



「わたしは今しあわせなんです!」というオーラを出しまくっているブログは痛々しくて見ていられない。そう思っていた。今も主観的に言えばそう思っている。けれども、客観的に見ればそう思っている僕こそが痛々しいというだけの事なのかもしれないと思うに至って落ち込んだ。落ち込むな俺。挫けるな俺。ドントウォーリー。ウォーリーがいない。








例えば「昨日はセフレとファックして今日は朝から体を売って一睡もせずにホストクラブでしあわせ」というしあわせ語りや、「昨日は4時までFFX、起きてパチンコ2万5000の勝ち、気分最高ヘルスで抜いて、夜は大井で3万負けた。たったの5000円で朝から晩まで楽しめて物凄いしあわせだった」といったしあわせ語りは僕から見れば、とても痛々しく見える。

何故ならば、それらを「しあわせである」とは認識できないからだ。




即ち、僕が「しあわせ語りをしているブログ」を痛々しいイタイ系の頂点に立つジャンルであると思いこんでいたのはただ単に、僕の人生経験と想像力が貧弱で、世の中にはそんな「しあわせ」など存在していないと端っから思いこんでいるだけに過ぎないのである。

であるからして、「友達とお酒飲んだ!おいしかった!たのしかった!」といった類のしあわせアピールが成されているブログのエントリーを目にすると、いたたまれなくなり目を逸らし、見てはいけないものを見てしまったという気分に苛まれて深い哀れみと浅い同情とを抱いてしまうし、「ああ、この人は物凄く無理をしていて、本当は物凄く辛いのだろうな」と思ってしまうのである。

「同窓会でみんな大人になってて凄い楽しくて俺もがんばろうと思ったりして、友情確かめ合ってちょうしあわせ!」なんてエントリーを見るとそれこそアカンアカン、イタタタ・・・と呟いてしまうし、「夕食に鍋をつついてTV見ながら一家団欒ちょうしあわせ!」なんてエントリーを見るとそれこそ、この人は今人生の絶望のどん底のど真ん中にいるのだろう、という目で見てしまう。

「久しぶりの連休なんで旅行に行ってきました!しあわせでした!」というエントリーを読めば「いいから、いいから無理すんな。わかったからやめろって!」と心底心配になってしまうし、「あまいおやつ食べました!しあわせでした!」なんてのを読めば「やめよう、ね。わかったから。無理しちゃだめだよ。スイーツだけが人生じゃないぜ?ほんと、もっと楽しいことは他にもあるよ!」と心の中のコメント欄で誠心誠意アドバイスしてしまう。




言うまでもなく、それらはただ単に仮に僕がそれを行ったならば物凄い無理、物凄い辛いだけで、全然しあわせだとは感じられないというだけの話であり、即ち僕は極めて主観的で物凄く了見の狭いオレオレ読者なのだという事に気がついて少なからずのショックを受けた。

そんな僕にも「痛々しいとは思わないしあわせ語り」というものが存在している。
それは「ゲームした。たのしかった。」だ。




たとえば「3vs3で4連敗したのでsoloに逃げたのだけど3連敗してしまい憂鬱な気分で再び3vs3に戻ったら物凄いグッドゲームで快勝出来てしあわせでした!」なんてエントリーを目にすると「お前、超しあわせじゃん!よかったね、ほんとうによかったね!」と思わず涙うるうるさせちまう。

ただ、1つ文句をつけるならば、soloで3連敗した時点でUMS、それもDOTA allstarsに逃げていたら完璧なのだが、という正しく「僕がしあわせだと思える事は、他の人にとっても幸せなのだろうと想像出来る」を体現した感想を抱いてしまう。




逆に、即ち。
僕は所謂「イタイ系エントリー」を見ても「あー、あるある、あるよねー」みたいな非常に軽い気分で楽しく読めるし、「ないけど、それはわかるなー、わかるわかる」といったような「タンスの角で足の小指をぶつけたよ」とか、「眼鏡を額に置き忘れていたよ」といった程度の感想しか抱かず、全然痛々しいなとも思わないし、見てはいけないものを見てしまった、という気分にはならない。




結論から言うと「しあわせそうにしあわせ語りをしているブログ」ってのはやっぱりイタイ系の頂点に立つ痛々しくてみていらんないブログの象徴的存在であると今も思い抱いているのである。








こんなにも大勢の毎日アクセスしてくださる素晴らしい読者さんの皆様方や、素晴らしいコメントを毎回残してくれてくださるコメンテーターの方々、あるいはとっても暖かいブックマーカーの人々に囲まれて、ブロガー冥利に尽きる物凄い幸せの真っ直中にいる僕はとてもしあわせです超しあわせ。ブログ最高。超最高。