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2006年2月1日水曜日

はい無職ね。住所は?現住所。



いえ、ぁ・・・ァ...


2005年12月9日金曜日

ブログにつけられたコメントを全て読むというのはブロガーに課せられた責務である。



とやってしまっては幾らかの不都合が出る。

とはいえ、僕は「コメントは読みません」だとか「読むかどうかわかりません」などと言っているブロガーは全て人と呼ぶに値しないインターネット強いては世界の粗大ゴミであると認識している、のだけれどそれは個人的嗜好に過ぎず、過ぎない。








ブログというのはコミニケーションを貪欲に求める層との相性が非常に良く、インターネットのあちらこちらでは今日も、我が物顔で居座りコメンテーター化した人々とブロガーとの間で三木の干殺しにも等しい一方的な消耗戦が繰り広げられている。それら「読むに値しないコメント」を全て読むのがブロガーに課せられた責務であるとすれば、ブログというフィードバックの敷居を下げたウェブツールの生み出す利益を最も享受しているのは、我が物顔で触れ回るだけの不躾さを有する人々であると言えるだろう。

普通の至って真面目なブロガーは自分のブログにつけられたコメントを全て読むのが当たり前の事であり、ほとんどの人はそうしているだろう。となると、それらの人々即ちブロガーは「読みたくもないのに読まされる」という点において究極にも近い無価値な文章を読まされ続けているという事になる。

無論のこと、それらコメントの多くはコミニケーションやフィードバックを求める人達にとっては福音なのだろうが、世の中にはそうではない人も大勢いて、この当たり前のようにコメント欄で馴れ合いじみた自己紹介を始める人々、大手小町的に言うと、いや、よくわからんが。大手小町的に言うと、、、わからんな。えっと、大手小町的に言うと、、、ええええ。わからんわ。

無論のこと、それらコメントの多くはコミニケーションやフィードバックを求める人達にとっては福音なのだろうが、世の中にはそうではない人も大勢いて、それらのブロガーは当たり前のようにコメント欄で馴れ合いじみた自己紹介を始める人々相手に心も脳も篭もっていない上べっつらだけの儀礼的な大人対応コメントを返し、その「コメントにレスが帰ってきた」という事象を、「馴れ合いOK!」「俺たちはもうお友達!」「マイミク申請通った!」的なサインであると勝手に受け取って、だらだらあ、だらだらあ、とまったくもって読むに値しない応答、やり取り、コメントというものが付けられ続けるという現場を幾らか目撃してはその度に萎える。

とにかく「コメントにはレスをするのがブロガーの責務」とまでは言うつもりはないが、やはりコメントには目を通すのがブロガーの責務ではなかろうか。

とやってしまっては幾らかの不都合が出る。




例えば真鍋かをりのようなブログのブロガーが付けられたコメントに目を通すとなると、それはもう絶望的な時間の無駄である。過去にあのブログにつけられているコメントがどれ程までに無価値無内容ゴミとしか呼べないものであるかは筆舌にほんまもん。

さすがに僕は真鍋かをりや、あるいは真鍋かをりのようなブロガーが「コメントはほとんど読んでいません」と言ったとしても、糾弾する勇気は無い。

とりあえず真鍋かをりの事はもう忘れよう。
彼女と僕の関係はあの日を最後に終わってしまったのだから。
今思えばあの頃の僕らは幼すぎたのだ。あまりにも。








コメントに目を通すのはブロガーの義務である。
とりあえず、僕の一応の結論はそれである。

しかしながら、そうすると幾らかの問題が出てくる。
例えばそれは、トラックバックである。

ブログにはトラックバックという機能がデフォルトでついており、インターネットの大海原を検索エンジン叩いた人や、あるいは読んだ読まないレスポンスからトラックバックが飛んでくる。




コメントに全て目を通すのがブロガーの責務であるならば、当然にしてトラックバックに全て目を通すのもブロガーの責務だろう。

即ちコメントやトラックバックというフィールドは「特定の人間に100%読ませる事が出来る」という正しく極上の著述場に他ならない。

その「100%読んで貰える」という読み保証こそが、コメントやトラックバックというもが人々に受け入れられた1つのポイントではなかろうか。おそらくmixiも似たような物で、特定の人に「必ず読んで貰える」「必ず見て貰える」という保証が欲しい人々が世の中には大勢いるのだろうと思う。




即ち、コメントを読むのがブロガーの義務であるならば、トラックバックを読むのもブロガーの義務であると思う。少なくとも僕はそう考えている。

であるからして、「トラックバックは読みません」などとぬかしているブロガーは全て人と呼ぶに値しないインターネット強いては世界の粗大ゴミであると認識している、のだけれどそれは個人的嗜好に過ぎず、過ぎない。




例えばコメントとトラックバックは読むのが義務であるとする。
そうすれば幾らかの不都合が出る。

なぜならば、インターネットの上にはトラックバックに準ずるフィードバックというものが大量にあるからである。



「送られてきたメールを読むのはブロガーの義務か?」
「送られてきたメールに返信するのはブロガーの義務か?」

「リファラから言及を確認するのはブロガーの義務か?」
「はてなブックマークのコメントを読むのはブロガーの義務か?」

読むのは、読むのは、読むのはブロガーの義務なのだろうか。
当然、そうさ。
そうだろう。





どうも、腑に落ちない。
納得の行く落としどころが見つからない。


2005年12月4日日曜日

ブログであるという普通、ブログでないという異常。



メリッサが猛威を振るったのはメリッサが優れていたからではない。
無論のこと、Outlookが優れていたからでもない。

ただOutlookが世界標準であった、というだけの話である。








「あのブログはコメント欄を閉じている」
「あのブログはトラックバックを受け付けていない」
そんな声をよく目にする。
人々は、それがまるで異常なことであるかのように思っている。

「コメントを書いたら削除された」
「トラックバックをしたのに拒否された」
至極当たり前普通の事である「コメント書き込み」や「トラックバック」に対して「削除」「拒否」といった特異な対応を行う人間は、頭がおかしい奴なのだと人々は考える。

本当にそう、なんだろうか。









「ブログとは何か?」なんて問いは今では意味を成さない。何故ならばブログとは何かを知っている人達は、ブログとは何であるかを知っているからだ。

1つ、コメント欄があって。
2つ、トラックバックがある。
1つ、RSSを垂れ流していて。
2つ、パーマリンクURLがある。

事実今では、ブログとはそれを指すのである。
それが標準当たり前の事なのだカー。




なぜそのようなものが普及するに至ったのかは知らない。
確かな事は、そのブログというツールは人々に一定の歓喜を持って迎えられたという事だ。

投稿したエントリ-の全てに個別のコメント欄が備わっているというのは多くの人達にとって福音であったのだろうと思うし、トラックバックという接点の可視化、相互リンク依頼のローハードル化も同じように多くの人達に歓迎されたのだと思う。

だからこそ、こうしてブログは広まったのだろう。




それは標準になった。
即ち、デフォルトである。

そして、そうではない事をしている人達は奇異の目で見られる。
「あいつはおかしい」「あいつは変な事をやっている」、「普通じゃないよ」と。




けれども、それらは本当にそんなにおかしな事なのだろうか?

コメント欄を閉じる。
トラックバックを削除する。
コメント及びトラックバックを許可制にする。
どうしてその位の事で嘲笑われなければならないのだろう。




それらを笑う人達は、その行為自体を問題としているのではなくて「普通ではない」という事を指差し囃し立てているにすぎない。「世間を見てみろ、みんなコメント欄は解放しているし、トラックバックは受け付けているじゃないか。」例外的な行動を取るお前は異常だ、と。

まったく、おかしな事だと思う。




正しい物が標準になるとは限らないし、標準となったものが万人にとって適切であるとは限らない。だから世の中にはIEを使わず異常なブラウザを使い続ける人がいるし、Windowsを使わずに異常なOSを使う人間がいる。ヒュンダイを知らない人もいるし、神を信じない人もいる。セガなんてだっせえよな。

同じようにコメント欄を閉じる人もいれば、トラックバックを受け付けない人もいる。




当たり前ではないからといって、非難される道理は無いはずだ。
いつ、何とき、どのような選択をしたっていいはずだ。

世の中にはコメント欄やトラックバック欄を必要としない人は一定の割合で存在する。けれどもブログというものがこれ程までに普及してしまうに従い、そういう人達もそれに気がつかないままでブログサービスをレンタルし、デフォルトの設定に従ってコメント欄やトラックバックを解放したブログを始める。そしてそのデフォルトの設定を弄っただけで性根が腐っていると100万のブロガーという巨大な総体から蔑まれる。

100万のブログがあって、100万人のブロガーがいて、それは巨大は圧力で、今ではその標準から外れたウェブサイトだってだけで後ろゆび指される時代。

RSSがなんだってんだ。
コメントがなんだってんだ。
トラックバックがなんだってんだ。
そんなもの、やりたい人だけやればいい。

それらがデフォルトだからといって、それに囚われる必要はない。多くのブログにコメント欄があるのはコメント欄が優れているからではなくて、ただそれが標準であると言うだけの話だし、多くのブログがトラックバックというものを受け付けているのは、ただそれが標準であるというだけの話である。そうでなくても構わないはずだ

少なくとも非難される道理は無い。
インターネットには自由という命題があり、それは個人を幸福にするという目的の為に存在している、って事になっているはずなんだから、建前上は。


2005年11月24日木曜日

「しあわせ語りをしているしあわせなブログ」こそが痛々しいイタイ系ブログの頂点に立つジャンルであると思う理由。



「わたしは今しあわせなんです!」というオーラを出しまくっているブログは痛々しくて見ていられない。そう思っていた。今も主観的に言えばそう思っている。けれども、客観的に見ればそう思っている僕こそが痛々しいというだけの事なのかもしれないと思うに至って落ち込んだ。落ち込むな俺。挫けるな俺。ドントウォーリー。ウォーリーがいない。








例えば「昨日はセフレとファックして今日は朝から体を売って一睡もせずにホストクラブでしあわせ」というしあわせ語りや、「昨日は4時までFFX、起きてパチンコ2万5000の勝ち、気分最高ヘルスで抜いて、夜は大井で3万負けた。たったの5000円で朝から晩まで楽しめて物凄いしあわせだった」といったしあわせ語りは僕から見れば、とても痛々しく見える。

何故ならば、それらを「しあわせである」とは認識できないからだ。




即ち、僕が「しあわせ語りをしているブログ」を痛々しいイタイ系の頂点に立つジャンルであると思いこんでいたのはただ単に、僕の人生経験と想像力が貧弱で、世の中にはそんな「しあわせ」など存在していないと端っから思いこんでいるだけに過ぎないのである。

であるからして、「友達とお酒飲んだ!おいしかった!たのしかった!」といった類のしあわせアピールが成されているブログのエントリーを目にすると、いたたまれなくなり目を逸らし、見てはいけないものを見てしまったという気分に苛まれて深い哀れみと浅い同情とを抱いてしまうし、「ああ、この人は物凄く無理をしていて、本当は物凄く辛いのだろうな」と思ってしまうのである。

「同窓会でみんな大人になってて凄い楽しくて俺もがんばろうと思ったりして、友情確かめ合ってちょうしあわせ!」なんてエントリーを見るとそれこそアカンアカン、イタタタ・・・と呟いてしまうし、「夕食に鍋をつついてTV見ながら一家団欒ちょうしあわせ!」なんてエントリーを見るとそれこそ、この人は今人生の絶望のどん底のど真ん中にいるのだろう、という目で見てしまう。

「久しぶりの連休なんで旅行に行ってきました!しあわせでした!」というエントリーを読めば「いいから、いいから無理すんな。わかったからやめろって!」と心底心配になってしまうし、「あまいおやつ食べました!しあわせでした!」なんてのを読めば「やめよう、ね。わかったから。無理しちゃだめだよ。スイーツだけが人生じゃないぜ?ほんと、もっと楽しいことは他にもあるよ!」と心の中のコメント欄で誠心誠意アドバイスしてしまう。




言うまでもなく、それらはただ単に仮に僕がそれを行ったならば物凄い無理、物凄い辛いだけで、全然しあわせだとは感じられないというだけの話であり、即ち僕は極めて主観的で物凄く了見の狭いオレオレ読者なのだという事に気がついて少なからずのショックを受けた。

そんな僕にも「痛々しいとは思わないしあわせ語り」というものが存在している。
それは「ゲームした。たのしかった。」だ。




たとえば「3vs3で4連敗したのでsoloに逃げたのだけど3連敗してしまい憂鬱な気分で再び3vs3に戻ったら物凄いグッドゲームで快勝出来てしあわせでした!」なんてエントリーを目にすると「お前、超しあわせじゃん!よかったね、ほんとうによかったね!」と思わず涙うるうるさせちまう。

ただ、1つ文句をつけるならば、soloで3連敗した時点でUMS、それもDOTA allstarsに逃げていたら完璧なのだが、という正しく「僕がしあわせだと思える事は、他の人にとっても幸せなのだろうと想像出来る」を体現した感想を抱いてしまう。




逆に、即ち。
僕は所謂「イタイ系エントリー」を見ても「あー、あるある、あるよねー」みたいな非常に軽い気分で楽しく読めるし、「ないけど、それはわかるなー、わかるわかる」といったような「タンスの角で足の小指をぶつけたよ」とか、「眼鏡を額に置き忘れていたよ」といった程度の感想しか抱かず、全然痛々しいなとも思わないし、見てはいけないものを見てしまった、という気分にはならない。




結論から言うと「しあわせそうにしあわせ語りをしているブログ」ってのはやっぱりイタイ系の頂点に立つ痛々しくてみていらんないブログの象徴的存在であると今も思い抱いているのである。








こんなにも大勢の毎日アクセスしてくださる素晴らしい読者さんの皆様方や、素晴らしいコメントを毎回残してくれてくださるコメンテーターの方々、あるいはとっても暖かいブックマーカーの人々に囲まれて、ブロガー冥利に尽きる物凄い幸せの真っ直中にいる僕はとてもしあわせです超しあわせ。ブログ最高。超最高。


2005年11月18日金曜日

ブログで食べていくという事。



さきっちょやはあちゅうの人や、実録鬼嫁日記の人、あるいはガ島通信の人が「ブログが無ければ今の人生は無かった」と言うとそれは一定の華やかしさというものが感じられるファンタジックな言葉として聞けるのだけれど、同じ台詞を僕が言うとただ痛々しいだけである。








ブログブームも一巡し、ブログというものが色々な形で様々な方向へと滲透し行く中で、日本でもブログで食べて行ける時代が来た、などという声をちらほらと聞くようになった。けれども、食べて行けるという事がそんなにも大それたものなのかと疑問に思わずにはいられない。

現代の日本において食べていくという事はもはや当たり前の事となってしまっており、ブログで食べていける奴は別に他の事でも間違いなく食べていけるだろう。我が国において餓死者などというものはもはや存在しない。即ち、命としての食は息絶えたのだ。

つまり、ブログという道具がもし仮に素晴らしさというものを有しているとすれば、それは食べていけるという事ではなく、生きていけるというそのものの部分であると僕は考えている。

おそらくこの国のインターネットにはもう随分と前からブログというものだけを人生の拠り所にして生きている人がたくさん存在していて、それは食べていけている人なんかとは比べものにならないくらい大勢いるだろうし、それは「食べていける」なんてのよりもずっと大切な事なんじゃないか、と思ったりもするのである。








僕はブログで生きてゆく。
他の何をも縋らずに。


2005年10月30日日曜日

伝えたいことが無いのならばブログの更新なんてしない方がマシだ。



「伝えたいことが無いのなら、ブログのエントリーなぞ書くんじゃねえ」
という主張には一定の理解を示すつもりだ。
けれども、それが全てではない。




ブログ、あるいはWeb日記を何年も書き続けていると、そのマンネリさに疲れ果てて「もう書かなくてもいいか」なんて気分になる人が大勢いる。

たまに書評を書いたり、ゲームレビューを書いたりして延命措置を講じてみても、だんだんと空虚になってきて、空のスティック糊がくるくる、くるくる回るばかりで何も残らずさらさらと、叩くそばから落ちてゆく。

そこで意地でも惰性で書き続けるのか、きっぱりさっぱり捨ててしまうのか、2つに1つの選択肢だ。そして多くの人は「書きたい事が無いなら書かない方がマシだ」なんて事を言う。もちろんそれは、当たってる。




けれども、いくつかの、今は更新されなくなったブログへと毎日毎日アクセスする度に、「冬だ。」の一言でもいいから更新してくれればいいのにと、思う。

ブログ読者が書き手に行使する事の出来る関わりなんて皆無に近い。例外的な、数パーセントにも満たないコメンテーターやトラックバッカーとは違う、圧倒的大多数の読み手と書き手の関係は、たいへん軽くて浅くて薄くてまた脆い。読み手か書き手の事を殆ど知らないのに対し、書き手は読み手の事を全く知らない。存在しないのと同じものだと思っている。

けれども、どんな弱小ブログにだって、その更新を待ち望み楽しみにしている読者が1人くらいはいるものだ。そういう人達は数ヶ月も前に更新の途絶えたブログにたまにアクセスする度に、「春だ。」の一言でいいから更新してくれればいいのにと、思っているに違いない。あるいはそうで、あるかもしれない。




結局の所、伝える事が無いのならば、ブログなんて更新しない方がいい。
けれども伝える事なんて、アイムアライブでいいじゃないかと思うのである。








伝えたい事があります。
僕は2005年のこの冬に、今もブログを書いています。

伝えて欲しい、事があります。
2005年のこの冬を、あなたはどうして過ごしていますか?


2005年10月17日月曜日

アルファブロガー



ベッドの上の彼女の上で何度目かの夜を過ごしていると彼女が言った。
「死ねばいいのに。」








「誰が?」

「夫。アルファブロガーなの。」

「アルファブロガー?」

「そう、アルファブロガーなの。」

こんな時に旦那の話をしはじめるなんてと、僕は少し萎えた。




「死ねばいいのに。」

「どうして?」

「だって、アルファブロガーなのよ。信じられる?うんざりなの。」

「アルファだから駄目なの?」

「ブロガーはみんな駄目よ。あんなの。」

僕もブログを書いているんだ、なんて言い出せる雰囲気じゃなくなった。




「みんな頭がおかしいのよ。正気じゃないわ。」

「ブロガー?」

「そう、ブロガー。ブロガーは全員頭がおかしいのよ。」

「そんなものかな?」

「おかしいのよ。」

うんざりしながら耳たぶを舐ってみたが、彼女は話を止めなかった。




「ブログを書き始めて1ヶ月で10%の人が頭がおかしくなるんだって。」

「ほんとう?」

「ええ、主人が言ってたわ。主人、こういうくだらないデータには強いの。」

「そうなんだ。」

「アルファブロガーだから。」

「なるほど。」

「3月で38%の人がおかしくなるの。」

「じゃあ、三ヶ月以上ブログを書いている人の62%はまともなの?」

なにもわかってない、という目で彼女は僕を睨み付けた。酷い目だ。




「違うわ。60%の人はブログを書くのを止めるのよ。三ヶ月で。」

「あー、なるほどー。じゃあ、残りの2%は?」

「生まれついてのおかしい人よ。アルファブロガーってのは、みんなそう。」

「確かに、そういうところはあるかもね。」

幾人かのアルファブロガーを頭に思い浮かべて、僕は納得した。




「強姦魔や人殺しと同類の人達が有り難がられている。それがブログ、ブログ、ブロガー、ブログ。」

「それはちょっと言い過ぎじゃあないかな。」

「馬鹿。馬鹿ね。真鍋かをりを見てご覧なさいよ。あれはキチガイの目をしているわ。」

まったく、アルファブロガーの話をしているときにかをりんは無いだろうと僕は萎えた。




「あの女はね、躯で仕事を取っているの。淫売よ。売女、売女。」

「そうなの?」

「そう。主人が言ってた。」

「あー、ご主人が。」

「主人はね、こういうくだらないのには強いの。まともなのは全部こけおどしだけど。」

「そうなんだ。」

「そう、死ねばいいのよ。」

アルファブロガーの妻に手を出すのはもうやめようと思った。




「あ、ケイタイ。」

「携帯。」

「誰から?」

「夫。アルファブロガーよ。声も聞きたくないわ。」

「そう、だね。」

「死ねばいいのに。」

「そうだよね。」

「一緒に暮らせる。」

「誰と?」

「あなたよ!」

語尾を強められても、と僕は思った。心おきなく中で出せるって以上の価値は君には無いよ、なんて言うわけにもいかなかったし。





「死ねばいいのに。」

「死ねばいいのにね。」

「さあ、続きをしましょう。」

「うん。僕が宇宙と天国を同時に見せてあげるよ、いつもみたいに。」

「お願い。全部見せて。いつもみたいに。」

ブログを書くのを止めようと思った。








「ちょうだい、はやくちょうだい!」

「はいはい、パイルダーーーーオーーーーン!」

頭がおかしくなる前に。