2005年11月7日月曜日

情報商材の1ページ目に「wikipediaをパクりましょう」と堂々と記されてしまっている事をどのように捉えるべきなのか。



例えばはてなブックマークのアカウントを多重に取得し自サイトの宣伝行為に使用している人間を指摘してモラルの無さを嘆き私物化に怒り羞恥の無さを笑う事は容易いが、それには何の意味もない。インターネットには法も秩序も存在せず、良い振る舞いも悪い振る舞いも1つの戦略に過ぎず、それどころかもはや関心や無関心ですらそのままの意味では通らず、作為ある振る舞いとしてしか存在しえない。




問題、というよりも僕の関心事は、そのサイトのコンテンツがwikipediaの無法コピーであるということだ。文章も写真もコピーしまくりパクりまくり、もちろん引用元表示なんて行っていないし、文章は適度に改変されている。まあ、なんとも酷いものだが珍しいものではない。こういった類のウィキペディアフィリエイトサイトは、海千山千合計二千を越える程にはインターネットに増殖している。極めて緩いwikipediaシンパとしては嘆かわしい事態である。




そのwikipediaというインターネットの百科事典が、情報商材の1ページ目に「wikipediaをパクりましょう」と書かれてしまっている事について、どのように捉えればいいのかを判断しかねている。

そりゃあ、wikipediaをパクるという単純作業を丁寧に行えば「文章を書く才能はいりません!」「誰にでも出来る簡単な作業です!」「月3万円のお小遣いをgetできます!」という情報商材の宣伝文句は事実であり、確かに可能なものである。

そして、「接続詞や語尾は柔らかい言葉で置き換えましょう」と書かれてしまっている今現在において我々に問われているのは「それを行うか行わないか」ではなく、それを行う人間を良しとするのか悪しきとするのか、あるいは我関せずを行くのかという、第三者としての倫理基準的な価値判断である。




wikipediaには著作権に関わるライセンスというものが一応は存在する。
無論のこと、そんなもの誰も読んじゃあいない。

罰則の存在しない規程などというものは機能しないのである。
wikipediaを不法にコピーしてアドセンスやらアソシエイトやらでがっぽがっぽした人間は、そっくりそのままその通り、やったもん勝ちであり、一切のペナルティは受けない。

wikipediaは幾千幾万の人々が丁寧に編み織りなして作り上げた立派なコンテンツであるからして、その特定ジャンルを抜き出してウェブサイトとして纏めれば、特定ジャンルに特化したサイトは往々にしてwikipediaよりも検索エンジンにとって相性の良い存在となってしまうが為に、5000dayを成することなど容易い。

wikipediaのコンテンツには、それだけの価値があるのである。




つまり、今ではwikipediaとは巨大な貯金箱なのである。
それはインターネットという行き過ぎた自由に支配された巨大な貯金箱の象徴的存在である。




そして最も致命的にして重大な問題は、wikipediaの不法コピーサイトは往々にしてユーザーインターフェースという面においてwikipediaを上回ってしまう、という点にある。

wikipediaはwikiという極めてオールドフェイスなウェブサイトであり、さらにあまりにも広大すぎるウェブサイトであるからして、特化して作られたウェブサイトと比べれば、利便性という点で遙かに劣る存在である。

単純に言ってしまえば、世にある幾多のウィキペディアフィリエイトサイトは全て、wikipediaのまとめサイトであると言い換える事が可能である。

ちょうど、2ちゃんねるのまとめサイトがおもしろさや大衆受けという基軸にて選り好まれた情報だけを纏めて、閲覧のしやすさという点に特化した形で提供しているのと同じように、wikipediaのまとめサイトである、よくできた不法wikipediアフィリエイトサイトは全て、wikipediaの情報を読者に優しい形でまとめて提示しているだけなのである。

それだけではない。
ウィキペディアフィリエイトサイトはアフィリエイトサイトであるからして、「広告」という価値ある情報を付加した形でwikipediaのコンテンツをインターネッターに届けているのである。

つまり、ウィキペディアの不法コピーアフィリエイトサイトは、wikipedia2.0としての側面を持つ。それは特定ジャンルに特化されたサイドバーという形でのユーザーインターフェース面でもそうだし、検索エンジンにhitしやすいウェブサイトタイトルという面でもそうである。また、インターネット広告というユーザーにとって有用な情報も付加されている。

Googleアドセンスがどうしてクリックされるかというと、それはユーザーがそこに表示された情報を価値あるコンテンツだと判断したからである。




即ち、かつてスパムと呼ばれていたもの、あるいは今でもスパムと呼ばれている巨根になる薬の宣伝に象徴されるスパムメールというものがエンドユーザーに非難されたその理由の第一は、トラフィックの占有でも、メールボックスのパンクでもなく、それが「コンテンツとしての魅力を持たない無駄な広告」であったからである。

対して、Web系のスパムに近いウィキペディアフィリサイトは、wikipediaのコピーであるからして当然ながらコンテンツとしての一定の魅力を持ち、さらにGoogleアドセンスというテキスト適合形広告機械によって、ユーザーが求めるであろう広告が表示される。




これを非難出来る根拠というものが、一体どこにあるのだろうかと疑問に思うのである。

いや、もちろん「wikipediaのライセンスに違反している」という形式での非難は可能である。しかし罰則の無い法が機能しないのは当然の事であり、それは根拠と成り得ないのではないかと僕は思う。つまり、GNU FDLというwikipediaの提示するルールを守るか守らないかという判断は、法という秩序ではなく、モラルの範疇に持ち込まれてしまっているのである。




そこで、ウィキペディアフィリエイターの第一の反論、あるいは第一の弁護として考えられるのが「誰にも迷惑はかけていないじゃないか」というものである。確かにwikipediaを不法にパクった事により迷惑を被る人はいない。それどころか、インターネッターに実りあるコンテンツを提供しているのだから、価値ある貢献行為を行っていると捉えるのが自然である。

さらに、極小フォントで引用元を表示したwikipediaの丸コピーサイトはどうか。
それらサイトは「ライセンスに違反している」というwikipedia側の唯一の拠り所すら失わせるものであり「いくらなんでも全文パクっちゃ駄目だろ」という反論はwikipediaの提示している引用ルール一応は筋の通ったものなのだけれど、その曖昧な基準線を明示的に描ける人間はどこにもいない。




つまり、wikipediaの不法コピーサイトというものを考えるならば、「誰にも迷惑がかかってないんだからいいだろ」という主張に基づく行為を許すのか、「誰にも迷惑がかかっていなくても、それどころか誰かの役に立っていたとしても、倫理的に問題のある駄目」であるとするのかの2つに1つの選択となる。

無論、他の選択肢としては「わからない」と「興味ないね」があるわけで、多くの人間はそれを選択するのであろう。もはや真剣さを演じようとするものほど滑稽に映る世の中であり、誰も真の真剣さあるいは誠実さなどというものを手にすることは出来ないのである。




結局の所、ここではやったもん勝ちなのだ。
ちょうどそれは世の中がそうであるように。