2005年11月3日木曜日

高橋(弟)メソッド



ようし、書くぞ。書いてやる。








やけくそである。逆ギレである。投げやりであり暴れはっちゃくぶらり旅である。暴れはっちゃくが何であるかなど知りはしない。ただ適当に書いただけである。フレーズの1つ1つにまで気を入れながら書いているとどれだけやっても投稿ボタンにまで辿り着けない事に対するレジスタンス投稿である。

真性引き篭もりである事は容易い。真に引き篭もっておればよい。しかしながら、インターネット接続環境を所持しながら真性引き篭もりを維持するのは非常に困難である。真性引き篭もりとは何であるかというと、真の引き篭もりである。人と視線を交わしてはならないし、人と顔を合わせてはならない。人と喋るなどもってのほかである。

その点においてインターネットは真性引き篭もりのアンチユニットである。アンチと言っても、2ボス右上左下などといった類のアンチではない。アンチである。別に言葉遊びをしているわけではない。ただ単に思考が乱れているだけの話である。物凄くふしだらである。

即ち、その点においてインターネットは真性引き篭もりのアンチユニットである。老人は同じ話を何度も何度も繰り返す。なぜ老人が同じ話を繰り返すのかというと、老人はあまりに長く生きたが故に、認知している全てのものに対する評価、志向興味の順位付けというものがほぼ完全に固定化されてしまっているからである。即ち老人には流動性が無い。

と僕が今ここで書いているという事は、僕の中で老人とうものの評価が完全に固定化されてしまっているからであり、即ち僕は老人である。とすればおかしな話のように聞こえるが、そんなにおかしな話ではない。どうだ、この知性。これだけ馬鹿でまぬけで間延びした、さらに内容の無い文章というものは滅多とお目に掛かれまい。

その点においてインターネットは真性引き篭もりのアンチユニットである。おおっと。




つまり、何が言いたかったかと言うと、どうして僕は「エントリーを書き上げ損ねた時に投稿する為のエントリー」というものを大量に用意しているにも関わらず、エントリーを投稿しない日、などというものを作り上げてしまうのだろうか。今見たら22本もある。そのどれもが永遠に日の目を見る事なく終わりそうな糞エントリーだ。ここで言う駄目エントリーとは、内容の善し悪しではない。文章の内容やら題材やらが駄目であるといえば、当ブログのエントリーなどは全てそうである。

当たり前だ。真の駄目であると言い切ってよい真性引き篭もりに駄目で無い投稿などというものが書けるはずがない。即ち、ここで言う駄目とは一般的な基準から見たブログエントリーの駄目さではなく、「投稿ボタンを押すに至れない」という駄目である。それは物凄く駄目である。

つまり、インターネットは真性引き篭もりのアンチユニットである事を言いたい。いや、別にそんなに言いたいわけではない。別に言わなくてもいい。そもそも、強度としてはそんなに強く思っていないし、四捨五入すれば0である。Back Spaceキーを使わずに思考も推敲もまた感情すらも挟まずに嫌がらせの如くエントリーというものを書きまくればどうなるかという実験、などではなく単なる自暴自棄だ。即ちhankakueisuu的なものを殺しにかかっていると言ってもよい。

というかマジでムカついた。
なんで手元の名称未定のデータによると20時間以上もテキストエディタと向き合っていたのにたった1つ、ブログのエントリーのたった1つすら書けておらぬのだ。おかしい。テキストエディタなのにウェブサイトのブラウジングが出来るというのがおかしい。おかげで、「インターネットは1日6時間まで」という自分の中の約束事を達成できているのか達成できていないのかがわからない。非常に困る。困るというか、この1日6時間という制限自体があまりにも真性引き篭もり的不健全さに包まれているものであり、なんとかしたいと思う。非常に改善したいと思う。だって6時間あれば真性引き篭もりの新規エントリーが1つ書けるじゃないか!、エクステンションマーク。

デパ地下巡る食いしん坊がショーウィンドウを眺めて全てを食べた気分になりながら自分の胃がまるで底なしであるかのように脳みそを振る舞わせたり、毛の生えただけではなく、黴まで生えた童貞がテレビのCMやら折り込み広告やらを眺めて全てを食べた気分になりながら自分の胃がまるで底なしであるかのように脳みそを振る舞わせたりするのと同じように最近は、何か物事を考えるとそれを即座に擬似的にブログのエントリー化している自分はあまりにもブロガーすぎると思う次第である。

つまり今現在の日常において僕はブログ、あるいは擬似的なブログエントリーという枠組みの外で思考というものを行うことが出来ない。本来ならば「僕」という私個人の中の1要素として真性引き篭もりhankakueisuuが存在していたはずなのに、今では「真性引き篭もりhankakueisuu」という虚の中の1要素として私個人としての僕が存在する。

飲み込まれた、取り込まれたのだ。自分を見失っただとか、自制能力を逸しただとか、そういう話ではない。事実僕は真性引き篭もりhankakueisuuというものに完全に吸収されてしまったのである。もはやこのような真性引き篭もりhankakueisuuに対する僕の些細な反乱ですら、真性引き篭もりhankakueisuuの葛藤、悩み、あるいは独白という形を逃れられない。僕がたとえ自暴自棄になったとして支離滅裂にして滅茶苦茶なエントリーを書いたとしても、それは真性引き篭もりhankakueisuuの自暴自棄であり僕の自暴自棄ではない。

だいたい、自暴自棄になった人間がブログのエントリーを書くだなんて話は聞いたことがない。相場としては自棄酒自棄食い自棄オナニー、僕の場合で言うならば自棄ゲームだろう。即ち自棄エントリーなどというのは真性引き篭もりhankakueisuuの典型的な行動であり、つまり即ち僕は既にもういない。




「いなくなった人がいる」と書くと、まるで怪談のような響きがある。
けれどもこれは怪談ではない。
あるいは、怪談である。

即ち、インターネットという場所は、いなくなった人が大勢いる場所なのである。





何故突然、まるで1つのエントリーであるかのように改行が入り始めたかというと、1つのエントリーとして書こうと思っていた話をどさくさに紛れて書いているからだ。もう、真面目に新規投稿として書いていては投稿ボタンに辿り着く前に他のエントリーへと興味情熱が転移してしまい、九郎義経の発想飛び状態で考えが飛び飛びになって最後まで行けない。いや、考えが飛び飛びになっているのならば、まだいい。心の整理もつくだろう。

そうではなくて、考え自体は完璧に纏まって全て出来上がっているのにそれが活字として独り立ちしてくれない。文章として独立してくれない。まるで真性引き篭もりのようにシナプスの陰で小さく丸くなっている。大きく硬くなっている。巨根。真性引き篭もりhankakueisuuによる嫌がらせとしか思えないノイズが文中に紛れ込んでは僕の清潔感というものを消耗させる。




今一番の苛立ちは僕が馬鹿になっているという事だ。別に僕が馬鹿になることに関しては構わない。どれだけ馬鹿になろうと、馬鹿は己の馬鹿さに気がつかないから馬鹿なのであり、それ自体を苦にする事は無い。己の馬鹿さを苦に出来ない人間こそが真の馬鹿なのである。即ちその点において真の知は真の馬鹿に等しい。

事実として金で買えぬものなど2005年の冬という時代には1つも存在しないのだが、仮にもしも金で買えないものが存在しなとするならば、エナジーグリッドを買い占めて*勝利*が可能なだけの資産を持つ大富豪と、何一つ買う事の出来ない一文無しは等しい。

つまり、現存する最たる富者と現存する最たる貧者が等しくないのは、真の富者が真の富者では無いという事にも増して、真の貧者が真の貧者で無いという点に原因がある。

富者が全てを埋める事が不可能であるのと同じように、貧者は全てを空っぽにすることが出来ないのが問題なのである。捨てる神あれば拾う神ありというのが問題なのだ。捨てる神に関しては何の問題もない。それは人が友を捨てるように、夫が妻を、妻が子を、不倫相手が不倫相手を捨てるように人は神を捨て去ってよく、神は人を捨てさってよい。

問題は拾う奴がいるという事だ。現代において死に絶えたのは死だ。死は死んだ。絶望は途絶えた。下手をすれば言葉遊びに読まれかねない領域だが、僕は本当に思っている。真性引き篭もりは真性引き篭もったが故に真性引き篭もりを維持する事が不可能になった。それはまた別の話であるかもしれないが、この際構わない。




即ち、今一番の苛立ちは僕が馬鹿になっているという事ではなく、僕の脳みそが馬鹿になってしまっているという事だ。それはちょうどセンターバックを放置出来なくなった34歳のストライカーと同じように、やろうとしているのだけれどやれないのだ。考えようとしているのに考えられない。これは衰えではなく、堕落であり涸渇である。何が涸渇したか、それは言うまでもない。真性引き篭もりが涸渇したのだ。

かつて、と書いて構わない段階、即ち一年あるいはもう少し昔の僕の人生を支配していたものは恐怖だ。しかしそれは恐怖であったが純然たる恐怖ではない。恐怖と共になんらかの未来に対する渇望というものがあった。少なくともドラゴンクエスト8をプレイしたいと思っていたし、引き篭もりを脱したいという思いもあった。あるいはもっと切実な所で言うとワールドカップが見たかった。なのに今ではそれら、人生における欲望というものが全て失われた。セックスもキスもしたくない。解りやすく言えばそうだ。




「ゲームを辞めたい」とすら思わなくなった。
ゲームを辞めてしまったからだ。

それどころか、「ゲームをやりたい」とすら思わなくなった。
いや、それ自体はよい。

「ゲームをやりたい」と思わない事は正常な事である。
二十歳を超えてゲームをやっているような奴は人生設計に失敗した奴だ。漏れなく。

しかし、この僕が、いや、あの僕が、違う、かの真性引き篭もりhankakueisuuが「ゲームをやりたい」という感情を取り戻したいと思わなくなったというのは致命的である。




「ゲームなしでは生きられない」と考えていた状態は純然たる正常であり、
「ゲームなしでは生きられないと思っていた」と過去形で捉えるは正常だ。
対して「ゲームなしでも生きられる」というのは終焉を通り過ぎた向こう側だ。

「眠らなくても生きていける」だとか「食べなくても生きられる」あるいは「羽が無くても飛べるんだ!」なんて言っている人間と同じくらいに「ゲームなしでも生きられる」と軽々しく言い放つ事が可能である私個人即ち僕というものは完全に壊れてしまっている。無い。




即ち、今一番の苛立ちは想像力の無さの例えとして持ち出そうとしたフランス代表でリーズからローマあたりに行ってあとはどうなったかは詳しくは知らないし、今どこにいるかは知らないけれどボランチ、ボランチの人の名前を思い出せないということだ。違う、それ自体は構わない。まったくもって馬鹿になっているが、そんな些細なことはどうでもよいのだ。問題はこのような文章というものをエントリーに紛れ込ませると「ああ、それはクロードマケレレですね」といったくだらねえ、まったくもって焦点のずれたコメントがつくだろうという予測だ。いや、クロードマケレレではなくオリビエダクールなのだが、問題はそこではない。もちろん、書いている最中に思い出してしまったという事でもない。今一番の問題は、今一番の問題は、今一番の問題が何であるのかが理解出来ぬという事だ。もはや僕の処理能力の限界を超えている。何故僕は真性引き篭もりhankakueisuuなのだ。

下手をすればあと1000行くらい書いてしまいそうな勢いだ、というか今日一日でそれくらいは書いたのだが、投稿ボタンを押せなかったというだけだ。それくらい書いたと言ってもびっしり書いたわけではない。7割は改行だ。改行多すぎだ。なんで自分でもそんなに改行ばっかしているのかが理解できない。なんで自分でもこれほどまでにうまくエントリーを纏め上げられないのかが理解できない。頭の中にはあるのだけれどそれを取り出す方法がない。

「困った」と頭をまさぐってみたら、抜けてぐらついていた太いプラグに手が触れて「ああ、これを差し直せば元通り、明朗闊達なブロガーに戻れるのか」と差し直そうとしたがなかなか刺さらない。どうしてかと手にとって改めて見ればそれはプラグではなくて髪の毛だった。ヤマは無い。中身は無い。内容は無い。こけおどし、こけおどしだ。








つまりもう僕は真性引き篭もりhankakueisuuである事にうんざりしているふりをしている。全くうんざりなんてしていないのにも関わらずだ。全ては計算なのだ。全ては謀略なのだ。全ては策略なのだ。「世の中は汚い」と言う奴はそいつ自身が汚いのだ。「世の中は狂っている」と言う奴はそいつ自身が狂っているのだ。「紅音ほたるはエロい」と言う奴はエロい奴で「ビヨンド・ザ・ビヨンドはつまらない」と言う奴はそいつ自身がつまらない人間なのだ。ビヨンド・ザ・ビヨンドはつまらない。