2005年11月29日火曜日

人間力のあるエントリー



今年は一年間働きに働きずめだったので、何か自分へのご褒美として車でも買い換えようと思い立ち、さあて何を買おうかと色々なウェブページを閲覧していると「頭が良くて気が利く“人間力がある人”ということだが」という一文に行き当たってしまい、思わず頭を抱えた。








僕がくそまじめに「死ねばいいのにと書くことは無責任であり同時に人生の放棄であり不誠実さに他ならず、真摯に生きるを志すならば文責を持って殺してやると書くべきだ」という投稿を懸命に書き続けていた頃に運悪く、「死ねばいいのに」というフレーズはテレビのお笑い芸人のフレーズであるという事を知ってしまい非常に萎えて、投稿ボタンに辿り着く気力というものを失ってしまったのだけれど、今にして思えば書いておけば良かったとも思わなくもない。

それによって自分が知ったのは、インターネットにはTVというものに敵愾心を抱いている人間が大勢いて、「TVは馬鹿が見るもの」というレッテルのようなアイデンティティがそこら中に林立しているにも関わらず、インターネットはテレビっ子的常識に満ちており、それをデフォルトとして扱う人達が大勢いるという事である。大勢いる、というよりも全てに等しい。

しまいには「しねばいいのにを理解できないのはお笑いの理解出来ない、おまけに空気の読めない馬鹿ですよ」などといった言論を目にしてしまうに至り、「あんたの世界観の中ではそのダウンタウンというものは日本人の基礎教養基礎知識であり読んでない奴プゲラッチョなのか?」と、思わず突っ込んでしまいそうになったというか、今現在こうして突っ込んでしまうに至っている。




と言っても別にお笑い番組というものが嫌いなわけではなく僕はただ、「食べ物を粗末にする人達」という括りに所属する人間に尋常成らざる不快感を感じずにはおられぬ性質であり、ダウンタウンだとかナインティナインといった人達はその「食べ物を粗末にする人達」にカテゴライズされているからして、そのような不愉快な人間共を見聞しようとは思わないというだけの話である。

さらに言えば自分は人間の笑い声というものを耳にすると背中をアリクイに嘗め回されたかのような不快感を感じ精神的に物凄く参ってしまう体質であり、笑い声が効果音としてけたたましく鳴り響くがデフォルトとなっているTVというものを見るには、かなりの覚悟と体力と精神的余裕が必要であるが故に、TVのお笑いの番組というものを苦痛の発生装置としてしか認識できていない。

いや、僕が死ねばいいのにを知らなかったのはそれ以前に、部屋にTVが無く僕は真性引き篭もりであるという根本的な大本の問題があり、それまでの話であるといえば、それまでの話である。




とにもかくして、即ち僕の言葉というものに対する感覚は世間とは少しばかりずれてしまっているらしい。それに関しては読み手としての立場で言えば、なんの問題はないし、不便もない。まあ、いいじゃないかと思うだけである。書き手としても別に良いのだ。そうまでして伝えたいことなんて何もない。




しかしながら、しかしながらである。
1人のブロガーとして明確な意識を持って使い続けてきた「人間力」という言葉が巨大なインターネットのサイトの上の文章の中で、「頭が良くて気が利く」とうい意味で使われているとなると、これは大きな問題である。

何故であるかというと、僕はこれまで人間力という言葉を「頭がおかしく気が狂っていてさらに無能」という意味で使ってきたからである。より正確に言えば「人間力という言葉を口にする人間はiconとしての山本昌邦と同じくらいに滅茶苦茶な言論と、それと矛盾した行動を取る無能で、場当たり的に自己正当化を繰り返す最悪の人であり嘲笑の対象であり、人間力という単語を使う人間の書く文章は読むに値しない」という意味で使ってきたからであり、僅か三文字6タイピングで猛烈なる自己批判を行える超絶便利なキーワードとして利用し続けてきたのである。

その完璧なるキーワードが世間的に完全に通用しないものであり、むしろまったく逆の意味合いを持つ言葉として広まってしまっているという事は、それ即ち物凄い悪夢だ。




山本昌邦という人が如何様な人物であるかというのは、ジュビロのファンの人に「山本昌邦に泡でも吹かせてあげてほしいんですけど……」と書かれていたり、10点満点評価で0.5という数字をつけられていたり、「何だこのコメントは。せっかく勝利したのに、何でこう評価を下げる発言をするのかなあ。」とくそみそにけなされていたり、挙げ句の果てには『そんなわけで、今季注目しているのは、山本采配で「どれだけ弱くなるのか?」という疑問に答えを出そうとしているジュビロ磐田。』とまで書かれているところから見ると、どうやら僕の知っている山本昌邦は未だ健在らしい。

即ち変化したのは山本昌邦への評価ではなく、「人間力」という言葉の意味という事になる。あるいはそもそも「人間力=山本昌邦」という公式自体が世間では成り立っていなかったのかもしれない。

僕はこの人間力という言葉に再び魂を取り戻す、あるいは魂を宿らせるがために、山本昌邦を日本代表監督、いや世界代表監督にするべく今ここで立ち上がり世界を山本昌邦で染め尽くしてやる。







結局の所、言葉と意味というものの間には常に夫と妻ほどの隔たりがあり、誰1人としてそこには辿り着けないのである。

あらゆる言葉はその意味を共有している人間の間でしか通じず、「異なった世界観を持つ人間との話し合い」という場において言葉が役に立つことはない。

即ち、異なった世界観を持つ人間同士が言葉と言葉をどれだけ交わらせた所で、両者の間の距離は埋まるどころか開くばかりであり、人は言葉という道具を通じてやり取りを行おうとする限り、啀み合うか馴れ合うかの強制自動2択から逃れることは出来ないのである。




TVってなんだい?
そりゃあ、TVだよ。

ラジオってなんだい?
そりゃあ、ラジオだよ。

ブログってなんだい?
そりゃあ、ブログだよ。

他のものにはなりゃしない。
全部それまでそこまでのものだ。

言葉ってなんだい?
そりゃあ、言葉だよ。

意味ってなんだい?
そりゃあ、意味だよ。

それ以上にはなりゃしない。
赤は青、黄色は青色、青は青。




150行書いた時点でこの投稿の内容は先に書かれてしまっているという事に気がついてしまい酷く動揺したので無理から超強引に唐突に転調してみたが手遅れなんの効果無し、くそうプンペン、おのれプンペン。







「敬語は難しい」と書く奴は庶民アピールがしたいだけ。
「英語に敬語は無いよ」と書く奴はインテリアピールしたいだけ。
「英語に敬語は無いというのは嘘」と書く奴はスーパーインアピしたいだけ。
「英語に英語は無いというのは嘘だというのは正確ではない」と書く奴は誤字脱字。




敬語は難しいらしい。
事実、敬語は難しい。

正しい敬語というものを喋り書こうとするとそれはかなりの教養がいる。
たった少しの間違いでめくぢら立ててぐらぐら言う奴が大勢いるのだ。
まったく、インターネットと教育にはゆとりが必要だと僕は思うね。
我が国の未来を背負って立つ人間力のある若者を養成するために。




即ち、世間では正しい敬語こそが正しく、間違った敬語は間違いであるとされている。しかし事実はそうではない。正しさはジャスティスで言えば正義だが、誤りが常に間違いであると考えるのは大きな誤りであり間違いである。

敬語は何を目的としたものであるかというと、それは敬意の伝達である。敬意の伝達という点において、正しい敬語であるかどうかという点は問題ではない。敬意の伝達が成されるかどうかというその一点だけが問題なのである。

例えばまったくに間違った、言葉という観点から言えば甚だ無礼な誤りを犯した偽敬語というものが並べ立てられたとしても、それによって敬意の伝達が成されたならばその間違いによる無礼さ、あるいは無教養さは敬語としての勤めを立派に果たすものであり、即ち時として言葉としての間違いは道具としての正しささえをもを意味するのである。

無論、敬語ではなく正しい敬語が必要な局面において間違った敬語を使う事は純然たる間違いであると言えるだろうが、正しい敬語が必要な局面というもの自体が間違いだ。そんなものはぶっ潰してしまえ。八丈島までどんぶらこだ。








即ち、僕がもしも誤った行動、誤った選択、誤った人生というものを歩んだとしてもそれは間違い誤りその類を意味するとは限らず、むしろそれこそが正しさであるが故に俺の行動の全ては全て、俺によって正当化される。

結局の所、大事なのは人間力なのだ。