2005年4月2日土曜日

つぐみはどこにいるのか



答えは1つである。
つぐみはいない。




登場人物を整理しておこう。

・つぐみを探す母親ブロガー
・つぐみを探す母親に協力するブロガー
・つぐみを探す母親に文句を言うブロガー

それが全てである。
つぐみはいない。






我が子が突然いなくなった時の気持ち。
それは普遍的なものであり、誰しもが簡単に理解出来る。

見つけたいと思うのが親の愛であるし、
それを手助けしたいと思うのが人の心である。


我が子が「行方不明」になった。
それを探す、藁をも縋る、ブログが出来た。
それは、瞬く間に広がった。


これまで、子供が「行方不明」になるというものに対しては色々な術が取られてきた。
まず、「行方不明」の原因を探る。
情報を調べ、その上で公が判断を下し、どのような方法を取るのかを選択する。
それらは慎重に行われてきた。



なぜならば「行方不明」という問題は、デリケートな問題だからである。
それが誘拐であったならば、公にしてはいけない。
それが誘拐で無い場合、色々なケースが考えられる。
その中で公にされるのは、以下の2つ。

・なんらかの事件に巻き込まれたと考えられるもの。
・事故にあったと考えられるもの。

の、2点である。
家出というものは、そこには含まれない。
なぜならば、家出というものの問題は単純化出来るものではなく、公の中の公にして探しあてるのに相応しい行方不明では無いからである。



全てが省かれた。
隠され、隠蔽された。


・行方不明になった娘を探す母親ブロガー
一人だけが歩いて行った。



愛だ。
これは愛だ。
助けるべきだ。
愛を助けるべきだ。


ブロガーが群がった。
愛だ。
これは愛だ。
この母親を助けるのだ。
母親の愛を手助けするのだ。



素晴らしい事である。
娘の行方を案ずる母親。
案ずる母親を案ずるブロガー。



どこにいるのか。
いないのだ。


想像力の欠如、という言い方は相応しくないのかもしれない。
サラリーマン高校生社長専務副社長市民大学生主婦老人腐女子、全てのブロガー。
彼らが理解しやすいものは、「行方不明」の娘を探す母親である。
物凄く理解がしやすい感情であり、行動である。

彼らが理解出来るのは、家出したいと漏らし続けた小学生ではない。
そのような一般的ではない感情というものをまず念頭に置いてブログを読む人間などいないという事なのだろう。ブログというものを行方不明の人助けという崇高な目的の為に使用する、理知的で模範的で尊敬されるべきブロガーにとっては、存在していなくても構わないくらいの無価値な存在であり、理解出来ぬ感情理解出来ぬ行動想像もつかない人生なのである。
そりゃあ、まあ、そうだろう。普通じゃあない。

それら広め広まる絵面を指して人間性と繊細さの欠如と言うのは簡単であるが、人間とはとうよりブロガーとはそのようなものなのであろうと思う。善良なるブロガーによる善良なエントリーと善良なトラックバックによる善良な勝利。これは良い事なのだ。


行方不明の娘を探す母親がブログを書いた。
ブロガーの手で日本列島に広まった。
行方不明の娘が見つかった。
つぐみはどこにいるのか。
つぐみはいない。