2005年4月24日日曜日

不可視ゲームと可視ゲーム。



うにゃーが面白いと書かれていたので遊んでみたけど全然面白くない。
遊んでも、遊んでも、一体どこが面白いのかまったく見えてこない。
面白くない点ばかりが目に留まる。
いつからか、見たいと願うものはまったく見えないのに、
見たくないと思うものばかりが見えてしまうようになった。
良くない事。目が腐っているのだろう。
ゲーム、ゲーム、ゲームの話。




僕が生まれるよりも前、全てのゲームは可視ゲームだった。
ちょうど将棋や囲碁のように、可視化されたルールのもと、一目で全てを見渡せるだけの小さな世界の遊びが提供されていた。
その時代の流れの続きの中で、可視ゲームは長い間栄え続けた。

ドンキーコングでは、自分、敵、ラスボス、助けるべき姫、と全ての情報が1つの画面に詰め込まれ、一瞬で全てを見る事が出来た。スペースインベーダーでは、自機、敵の数、弾、スコア、防護壁といった全てを見る事が可能だったし、ドアドアもバルーンファイトも、マリオブラザーズも、全てが一目で見渡せた。

それらはハードウェアの発展という支援を受けて、不可視ゲームへの進化を辿った。
可視ゲームであったマリオブラザーズは不可視ゲームの最初の雄へと化けた。
画面を右へ右へとスクロールさせると、そこには見た事の無い世界が広がっており、それを1ドットでも多く見るようと人々は夢中になった。
全てが一目で見渡せたSTGは姿を消し、画面を上へ上へとスクロールさせて見た事の無い世界を見るゲームへと進化を遂げて、ゼビウスやスターソルジャーは頂点に立った。

それらハードウェアの支援を受けて不可視ゲームが栄えるよりもずっと前、まったく別の場所で歴史上最も偉大な禁断の不可視ゲームは目覚めた。



糞ゲーは常に不可視だ。
どこが面白いのか見えない。
その原因を突き詰めると、ルールが見えない、ゴールが見えない、何が起こっているのか見えない。といった単純な不可視に突き当たる。
たけしの挑戦状にルールなんて無かったし、
バンゲリングベイはゴールが見えないから糞ゲー扱いされ、
シムシティ4は何が起こっているのか見えないから人々を困惑させた。

けれども、人々を狂わせるゲームも常に不可視だった。
1981年、ワードナ、トレボー、ウィザードリィ。最初の伝説。
何も見えない迷宮の中を手探りで探索し、やっとこさ強くなって色々と見えてきたと思った次の瞬間にはパーティ全員がロストされ、また全てが闇へと消えて不可視に戻る。
それは、衝撃的な不可視ゲームのデビューだった。

ここで重要なのは、不可視ゲームは見えないものを見るという作業である。
最後まで何があるのか見えないゲーム、何が起こっているのか見えず理解ができないゲームというのは往々にしてつまらない。
見えないものが最後まで見えないまま。
それはただの糞ゲーである。

その点で、ウィザードリィは完璧だった。
一寸先は闇だったゲームも、進めるにつれ少しずつ可視範囲が広がり、やがてはカーソルキーとAボタンで敵が出現した瞬間に首をはね続ける虐殺可視ゲームへと変化した。
ウィザードリィは最も偉大な不可視ゲームであると同時に、偉大な可視ゲームでもあったのだ。プレイを続ければ、見えない世界が見えるようになった。


日本に不可視ゲームを広めた男。
彼は最初から不可視だった。

軽井沢誘拐案内
ポートピア連続殺人事件
オホーツクに消ゆ
全てが見えなかった。
彼には、人々に「その先を見たい!」と思わせるだけの不可視な世界を作り上げるだけの力があった。間違いなく、特別な才能だった。そしてドラゴンクエストへ。
それは、センセーショナルだった。
たった一人で世界へ飛び出し、見えない世界を1歩1歩見て行くゲーム。
そこに用意されているのはRPG乱発期に量産されたような退屈で平凡な世界などではなく、遊び心に富んだ微妙に奇妙で新鮮な世界だった。「その先を見たい!」と思わせるだけの不可視な世界が最後まで続いた。

ドラゴンクエスト1には大きな可視が仕組まれていた。
ゲームをはじめて城から出ると、海の向こうの山の向こうにラスボスの城が見える。
ドンキーコングでゴリラが画面に見えたように、最初からゴールが見えていた。
ドラゴンクエスト1において、堀井雄二はどこまで続くか解らないといったアンフェアな行いは取らず、ここがゴールだ!とプレイヤーにフェアな勝負を挑んだ。


ウィザードリィやドラゴンクエスト1がそうであったように、偉大な可視ゲームは常に偉大な不可視ゲームでもあった。その象徴がゼルダの伝説~神々のトライフォース~だ。

ゼルダの伝説は不可視の世界で手に入れた道具でさらなる不可視の世界を切り開くと言う、不可視を可視へと変える作業の無限連鎖が巧妙に絡み合って作り上げられた1つのゲームの頂点だった。
その巨大な不可視の世界は、まるでディグダグのような1画面に収まる小さな小さな可視ゲームが延々とつなぎ合わされて作り上げられていた。
画面端まで移動すると次の1画面が全て見渡せる形で現れた。
ルールは非常に単純で全て可視化されており、難しいがフェアなゲームだった。
その可視性と引き換えにしたゼルダはより優れた不可視ゲームへと進化し、画期的な新しさを手に入れた。同時に幾らかの力を失った。
見上げる梟、白馬に跨り駆ける平野、転がる岩、笑う仮面。
可視ゲームという古い枠組みを手放すに十分な新しさだ。問答無用の3D。


不可視は常に人の手によって作られる。
不可視を人の手以外のもの、つまりは乱数によって作り上げようとする試みは全て失敗に終わった。
不思議のダンジョンという名作ゲームシリーズで乱数が司るのは極めて一部の小さな部分で、アイテム生成頻度、敵の強さと出現階数、イベント、ゴールの位置などは全て人の手によって丁寧に作り上げ調整されたものである。Morrowindは別の話だ。
乱数が不可視ゲームを作り出す事は永遠に無いだろう。
不可視の先には人々が「見て良かった!」と満足出来るだけの世界が用意されていなければならない。乱数にそのような芸当は無理だからだ。



マリオやゼルダやドラゴンクエストの成功によって、作り上げられた不可視ゲームが日本で売れると判明してからというもの、「見たい」→「がっかり」という糞不可視ゲームが雨後の筍のように誕生し、ゲーマーのときめき値を少しずつだが確実に消耗させて行った。
「見たい!」→「見て良かった!」
という不可視ゲームを作るのは本当に困難だ。
堀井雄二でさえ、ドラゴンクエスト7で幾らかの失敗をした。

「最近のゲームを楽しめない自分はもうゲーマーとしては駄目なんじゃないか」
そう思い悩むあなた方は駄目じゃない。
全然駄目じゃない。
体力が衰えたとか、感性が衰えたとか、老いたとかでは無い。
不可視の先に見て良かったと思えるだけの世界が用意されている事は非常に稀であるという事を頭と体が記憶したというだけの事である。それを学習し、学んだのだ。頭イイ。進歩。誇るべき事だ。
けれどもそれは同時にビデオゲームという不可視の世界を可視化し、沼の底まで見渡してしまったという事であり、1ゲーマーとして天寿を全うしたいと考える人間にとっては、その願いが潰えて消えたという残念さでもあるのだけれど。


中村光一。
堀井雄二と一緒にいた人。
彼も不可視を作り上げる才能に溢れた人だった。
弟切草、かまいたちの夜、街。
今尚語り継がれるサウンドノベル。
サウンドノベルやアドベンチャーというゲームにおいて、不可視は選択肢の先にあった。正しい選択をすれば不可視の世界は可視となり、間違ったものを選べば不可視は不可視のままだった。堀井雄二も小島秀夫も、MYSTもRIVENもそうだった。

作り上げられた可視の世界に選択肢という不可視を被せたゲーム。
それがゲームとしてのサウンドノベルであった。
それを逆にしたゲームがひぐらしのなく頃にである。

そのサウンドノベルは、最初から最後までが可視であった。
選択肢はまったくなく、ただ読むだけ。
可視に始まり可視に終わる。
けれどもそれには不可視が仕組まれており、それは人の心を掴んだ。
ウィザードリィやゼルダの伝説がそうであったように、人を狂わせるひぐらしのなく頃にという可視ゲームは、同時に不可視ゲームであった。
その不可視を可視化する唯一の方法は次のコミケ、その次のコミケ、またその次の。
その日が来るまで可視は可視、不可視は不可視のままである。
ひぐらしのなく頃には、これまでゲーム内で行われていた不可視を可視に変える作業をゲームの外に持ち出したのだ。それ自体は革新的ってわけではないのだけれど、それを徹底的した事でひぐらしは1つの頂点へと上り詰めた。


不可視ゲームを可視ゲームとしてリニューアルする。
それが巧妙に行われた場合、可視ゲームに不可視ゲームの皮を被せるのと同じくらいに面白いゲームが出来る。
カードゲームにおける「敵の手札は見えない」というルールを可視化したカルドセプトはCPUの力を借りて誰もが褒める名作ゲームの1つとなった。


レースゲームは常に不可視だ。
見たことも無いコースが用意され、それをクリアすれば次のコースが可視化される。
マリオカート、F-ZERO、リッジレーサー、グランツーリスモ。
それらを遊び続けていると、不可視だったコースの曲がりは完全に頭の中に刻み込まれ、やがては何も考えなくてもノーミスで走り続ける事が出来るようになる。
ウィザードリーが変化するのと同じように優れたレースゲームは常に優れた不可視ゲームから優れた可視ゲームへと変化する。駄目なレースゲームは駄目なままだけど。


ファイナルファンタジー。
これも1つの不可視の物語。
昔のファイナルファンタジーの不可視の先にある世界は、ゲーマーをメインターゲットとして作り上げられていた。けれどもそれはある時から、ゲーマー以外の人をメインターゲットとして想定した不可視の世界の物語へと変化した。
誰もが「見たい」→「見て良かった!」と思えるだけの不可視ゲームというのは簡単に作れるものじゃない。ファイナルファンタジーが取ったターゲットの設定は正しかったという事は、落ち込む事の無い売り上げ本数が示している。

昔はFFターゲットであったゲーマーが今のFFを買うというのは、「FF5は最高だった」という思い出を再確認する為にお金を出すという事だ。
それは、「武将風雲録は最高だった」「IIIは最高だった」という思い出を再確認する為にお金を出すのと同じくらいに素晴らしい事である。
思い出に対価を支払うと言うのは、それなりに正しいお金の使い方なのだ。何より、12800円ではなく7800円というリーズナブル。
新しい思い出を買うのではなく、古い思い出を買う。
少しの虚しさを伴うけれど、間違ってはいないのだ。


株式会社コーエーのシミュレーションゲームが不評なのは、他の不可視が原因だ。
シミュレーションゲームにおいて重要なのは、ルールの可視化とバランス調整である。
株式会社コーエーのシミュレーションゲームでは、ルールは完全に隠蔽されている。
数字の1がどのような効果を発揮するかはプレイを重ねても見えてこないし、特技だ必殺技だ武器だ馬だと色々な要素が入れられていながら、それがどのような働きをするのかがプレイヤーには見えないように作られている。なんか呂布と上杉謙信がなんか嫌な感じで微妙に強かったり、CPUはあからさまにイカサマをしていたり。
可視にするべき3つの点、ルール、ゴール、何が起こっているのか。
コーエーのゲームはその3つ全てが不可視であるといってもよい。
可視化されているのは、書き込まれた顔グラフィックと菅野よう子だけである。


それとは対照的な、可視化するべき点を可視化したシミュレーションゲームの頂点。
それは、シドマイヤーズ、シヴィライゼーション、アルファケンタウリである。
べらぼうに分厚い説明書の元で全てのルールがプレイヤーに公開され、しかも理解しやすいように単純化されている。マップの大きさ、陸地の広さ、敵の強さ、戦闘におけるルールなど、ゲーム進行に関わる全てのルールが可視化され、カスタマイズ可能である。
難易度調整においては、CPUのイカサマ具合を-80%から+200%の範囲で示し、その他雑多な細かいルールの全てをプレイヤーが設定出来る。
また、驚くべき事にゴールのカスタマイズも可能である。
気に入らないゴールはOFFにすれば、そのゴールはゲームから取り払われる。
標準ではOFFである特殊なゴールをONにしたら、まったく違うプレイ感になる。
さらに、何がおきているのかも見渡せる。
戦闘においては数字と数字がぶつかって、フェアな戦いが起こる。そこには隠蔽された情報、上杉謙信や諸葛亮は数値以上に強い、といったアンフェアな不可視はまったく無い。
CPUもプレイヤーと同じ条件で収入を得て、プレイヤーが望むならばそれを覗き見る事が出来る。
絵と音楽でこけ脅すコーエーシミュレーションとは何から何まで対照的である。


こけ脅し、騙し、過大広告。
それはゲームソフトにはつきものであった。
パーツのカスタマイズにより1000万パターンの自キャラが作成可能!
裏面をクリアするまでに必要なプレイ時間は1000時間!
隠しダンジョンはランダム生成により、なんと1000F!
それら、不可視の先につまらない可視、場合によってはただの乱数を用意しただけのゲームソフトというのは、人々を飽きさせゲームから離れさせた。
そしてそれに懲りた人々は不可視ゲームを敬遠し、可視ゲームを好むようになった。
小さなゲームが好まれるのは、そういう理由だと思う。
ドラクエ7やFF8がプレイヤーの心を折ったように、虫姫ウルトラや、東方のハードモードは時として人々の心を折ってしまう。「もう無理だ、これは永遠に不可視だ。」と。
それに対し、時間に応じて敵が強くなるというルールと、死というゴール、全てが一画面に収まるという見通しは誰も傷つけない。かつて不可視ゲーム、それもより一層の不可視である事を望んだハードコアゲーマー達は、時代の歩みに取り残されて孤立して、一目で全てが理解出来る可視ゲームを求めているのだと思う。
ゲームボーイや任天堂DS。ヒトフデやガンホーのワームズアルマゲドンがそうであったように、可視ゲームを待ち望み楽しむ人達がいる。
不可視ゲームを楽しめる人は可視ゲームを楽しめる人に比べて遥かに少ないのだと思う。
往々にして不可視ゲームは受けない。よっぽど良く出来ていないと。



これまで発売されたゲームの中で、究極の可視ゲームは何だろう。
僕はその候補としてリアルタイムストラテジーを推したい。
スタークラフトやウォークラフト、エイジオブエンパイアといったゲームにおいて、全てのルールとゴールは可視化されている。
対戦を前提としたゲームは、将棋、囲碁、対戦格闘、FPSなどがそうであるように、ルールとゴールが可視化されておらねばならず、非常にフェアである。
リアルタイムストラテジーには、それに加えてミニマップというものがある。
そこには、自分の軍隊が青い点で、敵の軍隊は赤い点で可視化されており、熟練者になればパックマンをプレイするかのようにリアルタイムストラテジーを小さな世界で起こる戦争ゲームとして遊べる。
ミニマップという俯瞰視点を用意する事で起こっている出来事の全てを見渡す事を可能とした、可視ゲームの1つの最終地点である。

RTSはコンシューマじゃあれだし、洋ゲーだし、まあ、日本人だしという事で国産ゲームから選ぶならば、ファイアーエムブレム辺り。
敵の位置、ダメージ計算方法、、回避率、命中率といったルールは全て可視化され、ゴールも何が起こっているのかも全て見られる。隠蔽された情報はまったくなく、非常にフェアなゲームである。


では、究極の不可視ゲームはとなると、これは難しい。
最高の不可視ゲームとは、不可視の先に待っている世界がプレイヤーに最大の満足をもたらしたゲームである。けれども、究極となれば、エバークエスト。これだ。
太平洋を横断出来るくらいの時間と10人以上の仲間がいなければ可視化出来ない世界。それだけのものが用意され、尚且つゲームとしての完成度が高かった不可視ゲームを僕は他に知らない。究極すぎてあれだけど。1つの最終到達地点の例として。




不可視か可視か。
それがゲームの話であれば、大した問題ではない。
ゲーム=人生な人達にとっては重要なのかもしれないけれど、幸いにして僕はそうではない。

問題は、人生は不可視であるか、可視であるかだ。
生まれた頃、物心がついた頃、まだ幼かった頃。
世界は不可視だった。
見た事の無い見たい世界がたくさんあって、それらは希望に満ち溢れた不可視だった。
もっともっとと、全ての不可視を見たいと誰もが望んだ。
不可視を可視に塗り替える作業は快感なのだ。

けれどもやがて気がつく。
不可視の先に待っているものは幸せばかりで無い事に。
満足の行く見た事の無い世界なんて、そうそう転がっていないと。

それに少しの時間の流れが加われば、先がだいたい見えてしまう。
不可視だった世界はそこにはなく、平凡な可視が広がる。
来年は1つ老いているだろうし、10年後には結婚しているだろう、20年後には子供が出来て、40年で年金生活、45年で孫を見て、60年後はもういない。
これっていわゆる駄目ソフトだね、と。

だけど、可視だって事はそんなに悪い事じゃないと思う。
来期のInterの順位や今年のワールドシリーズの勝者を予知する事が出来ない程度の小さな不可視はたくさん容易されているわけで、先の見えた人生の中でそういう小さな不可視に新鮮さを覚え続けるってのはそれなりに幸せな事だ。

同時に、不可視だって事もそんなに悪い事じゃない。
今はどうなるかわからずに、明日の事すら想像出来ず、ろくに希望を抱けなくても、不可視の先にはそれなりの世界が待っているかもしれない。諦めず1ドットずつスクロールして、見てみるってのも悪くない。多分、見ないよりはずっといいだろう。

そういう他愛も無い事を色々考えていると、うにゃーが面白くない原因を発見したので、それをご報告して本日の投稿を終わりにしたいと思う。
面白いゲームとは何か。
不可視ゲームだ。
面白いゲームとは何か。
可視ゲームだ。



うにゃーが面白いゲームで無いのは、不可視でも可視でもないからだ。
あれは、不可視ゲームでも可視ゲームでも無い。
おかしゲームだ。