2007年11月5日月曜日
ヨァウヨシモモヘ運動
僕は日本語が、嫌いである。
なぜ日本語が嫌いになったかというと、我が国には、あまりにも日本語が反乱しすぎているからだ。もしも僕がスコットランドで育てば英語が嫌いになっていたかもしれないし、ドイツで育ておればドイツ語が嫌いであったやもしれぬ。しかし事実として、変えられぬ過去として、僕は日本で生まれ、日本で育ち、そして日本語が嫌いになった。
無論の事、日本語の全てが嫌いなわけではない。好きなところもある。学がないので、学術的にこのような箇所が好きである、と書き記せぬのは無念であるが、好きなところもたくさんある。
1書き手としての立場から言えば、一打一打のキーボードの打鍵を、1つ1つ大切に発音してくれる点は、大好きである。私は、私の指の叫びがそのまま誰かの魂即ちソウルに振動となって響き渡っている事を想像して、少し幸せな気持ちになる。
あるいは、読み手として(もちろん書き手としても)は、ひらがなの丸さ、カタカナの角張り、漢字の内包する多様性と字面としての重みのバランスなども、大好きである。日本語の変なTシャツや、変な日本語の入れ墨を、少しは理解出来る。日本語は、かっこいいのだ。
あいにく僕は凄まじいまでの悪筆で、「字を書く」という行為が日本語を汚しているような行為であるかのように感じられてしまい、字を書くという行為が昔から大嫌いであったし、これからもそうであろう。パーソナルコンピュータの時代が訪れていなければ、僕は死ぬまでこんなにも、日本語をこのように表記する事など無かっただろうと思う。偉大なるゲイツに感謝せねばならない。
具体的な語で言えば、「平家にあらずんば人にあらず」とか「五月はものみなあらたに」とか「さんよんさん」とか「秦の始皇帝」とかが好きである。
けれども、残念なことに、全てを合わせ見れば、僕は日本語が嫌いなのである。何故ならば、我が国は日本語をぞんざいに扱う輩で満ちあふれており、それらに触れ続けた結果、僕は無念にも日本語が嫌いになってしまったのである。
たとえば、我が国には運動会というイベントがある。そこにおいては、何者か(教師もしくは怪我で運動の出来ぬ生徒)が拡声器で、「がんばれがんばれ」「がんばれがんばれ」とけたたましく叫び立てる。もう一度言うが、拡声器で、である。この語が嫌いで、嫌いで、ならない。
なぜ頑張らねばならぬのか。なぜ頑張れと申すのか。はっきり申し上げて、必然性というものが存在しない。お国から、走れと命ぜられて、走るくらいは童にだって出来よう。しかし、頑張るか、頑張らぬか、というのは意志である。人の根幹である。
人間が、50年の人生で、全ての瞬間において頑張り続けられるわけではない。気力とは摩耗するリソースであり、頑張りとは枯渇するリソースである。その大切なものを、くだらない瞬間に放出せよと命ずる語が、抑揚もなく拡声器で(あるいは口に手を当てて)叫び続けられているのは、正しく異常である。
しかし、「がんばれ」という語にも、幾らか同情の余地がある。幾つかの局面において、我が国には、「がんばれ」を代用出来る語が存在しないのである。たとえば、先に述べた運動会であれば「走れ」で良いだろう。実際の所、まったく頑張らなくても実は走れるのである。
「がんばる」という行為が必要になる局面があるとすれば、それは走る際ではなく、走るための下準備の際である。かつて槍投げの世界王者が「あとは(槍を)置いてくるだけだ」と表現したように、真にがんばった人間にとっての舞台というものは、全てが始まる前に全てが終わっているのである。
つまり、どうして、このように、日本語が嫌いになってしまったかというと、相応しくない場で、相応しくない語が、これでもか、これでもか、と連呼され、叫ばれ、それを聞かされ読まされし続けてきたが故に、僕はもう、素直に日本語というものを受け取れなくなってしまっているのである。
英語圏のウェブサイトにおいて、「母国語で書き込むべきか」というのは、1つのちょっとした問題である。代表的な例を言えば、今で言うとYouTubeになろうか。ああいった場で、どのような言語で書き込むべきか、というのは幾つかの論争を生んだ。
そしてまぬけなことに、我が国においては、「英語のサイトなんだから英語で書き込め」といった脳味噌腐っている一派が一定の勝利を収めた。そして英文の体を成していない酷いコメントが日本人の手によって今も日々、量産され続けている。阿呆である。
つまり、端的に結論から言ってしまえば、何かを書こうとする時、どの言語を選択するべきか、というのは悩むような問題ではない、という事である。その人が、最も得意とする言語で書けばよいのである。それが日本語であれば日本語であるし、ブラジル語であればブラジル語でよい。
どうせ、どの言語を用いても、それが完全な形で伝わる可能性、というのは0である。どうせ言葉は無力なのだから、発言者は自身にとって最も効率的な言語を用いて、最善を尽くせばよいのである。それを読む努力を行うかどうか、というのは明日明明後日の問題である。([明明後日]を[しあさって]と読むのは、いくらなんでも酷いと思う。)
先日、外国のブログを見ていて、不覚にも疎外感と一体感を動じに味わい、奇妙な感傷的な気分に陥った。そのブログには、「ヨァウヨ」という語と、「シモモヘ」という語が含まれたコメントがあちらこちらに頻出し、圧倒的な存在感を持って、そのエントリーのコメント欄を支配していたのである。
それは、なんてことのないシフトJISエンコードに強く依存した文字化けであり、その文字列をヨァウヨ、シモモヘ、と読んでいるのは世界中で僕くらいだったのかもしれない。現地の人間のPCから見れば、文字と認識できない奇妙な記号に過ぎないのである。
しかし、その、彼ら外国人にとっては音読どころか目視すら不可能な語が、僕の目にはヨァウヨ、シモモヘと映り、長い英文で渾身を持って語られるコメントの合間合間に、途切れる事なく表れるヨァウヨとシモモヘは、刻一刻と存在感を増し、頭の中でリフレインされ続ける。
コメント欄を読み進めれば、読み進める程に、ヨァウヨシモモヘが頻出し、その響きが僕の魂即ちソウルへと流れ込んでいく。そして僕は不覚にも涙した。僕は多分に漏れず中国人というものが大嫌いで、自分の好きなチームに所属する選手を例外として、中国人を応援した事など、ただの一度も無い。
にも、かかわらずである。
中国人が中国語で投稿したコメントが、シフトJISエンコードによって「ヨァウヨ」「シモモヘ」へと化け、僕の心と脳みそは、「ヨァウヨ」「シモモヘ」一色に染まる。誰一人として「ヨァウヨ」とも「シモモヘ」とも書き込んでいないにも関わらずである。
そして僕は、全ての言語圏に属する全ての人が「ヨァウヨ」「シモモヘ」を共有している事までを強く確信するに至ってしまい、その一体感と疎外感に不覚にも心を揺さぶられてしまった。
その中で1つ関心したのは、中国語で書き込みながら、申し訳程度に英語を添える、という中国人の姿勢である。人によってかなりの差はあり、旧ソ圏や独仏圏のものに引けを取らない英文もあれば、定型文のコピー&ペーストのものまで、内容は様々なのだけれど、「ヨァウヨ」「シモモヘ」に添えられたそれらの英文により、僕は「ヨァウヨ」「シモモヘ」を共有出来たのである。
多言語空間におけるネットコメントはかくあるべきだと僕は考える。つまり、最も得意とする言語で文章を書き、(多くの場合は)英語を添える、というのが最も適切だろう。
インターネットは無惨なもので、現実としてコメント欄は管理者との1対1のコミニケーションの場としては機能しないものであるから、(1つのエントリーに対して世界中から700ものコメントがつけられるコメント欄に対してそのような機能を追い求めてもそれは徒労にしかならない。)コメント欄を開いた人間(youtubeであれば動画投稿者、ブログであればエントリー投稿者)が可読不可能な言語であろうと、おかまいなしに、自らの最も得意とする言語で書き込み、インターネット公用語たる英語、あるいは現地語を可能なレベル添える、というのが最も正しい多国籍コメンテーターのあり方だと思う。
わたくしの話で言えば、以前韓国の人が日本語で書き込んでくれたけれど、むしろ韓国語で良いのに、と思った。無理をして日本語で書き込むよりは、最も得意とする言語で書きまくってくれた方が、時間あたりの生産性は遙かに上で、質量ともに優れたコメントを書くことが可能であったろう事は、疑う余地は無いからである。
話を「ヨァウヨ」「シモモヘ」に戻してこのエントリーを終わりにしようと思う。結論から言ってしまえば、今、僕は、この「ヨァウヨ」と「シモモヘ」という2つの語を、我が国に、いや世界へと広めねばなぬという使命感に駆られているのである。
たとえば、僕が今、我が国の為に、そして世界の為に出来る事が、もしも仮に存在しているとすれば、それは「ヨァウヨ」「シモモヘ」という、僕が外人のブログのコメント欄で出合った2つの語を、ブログのエントリーにて、インターネットへと流布せしめんとする事だけである。
そこで、なぜ、今、我が国で、「ヨァウヨ」なのか、「シモモヘ」なのか。という、最も肝心な点について書き記しておきたい。日本語には、「ポジティブな単語」というのが不足している。人を馬鹿にし、嘲笑い、おちょくり、挫き、罵り、痛打する、負の単語は有り余っている。これでもかとばかりに、世の中に溢れている。その一方で、正の単語、即ち前向きな単語、ポジティブな単語、というものは、完全に不足している。
たとえば、「がんばれ」はその最たるものだ。本来ならば「がんばる」というのは各自己が独自の判断にて行う、とっておきの聖なるものなのに、その命令形としての「がんばれ」が、氾濫し、不適切な場で用いられ、連呼され続けている。
それは、「他に適切な語が存在しない」という日本語の不完全さに起因するものである。つまり、僕は、この「ヨァウヨ」「シモモヘ」を、単語不在の日本語のニッチを埋める救世主として皆様に広く告知、流布したいのである。
「ヨァウヨ」「シモモヘ」という、コンピューターという魔法の箱が生み出した2つの語は、「軽快さ」と「極限のポジティブさ」と「全肯定」の3つを統合した語である。(故に僕はそのブログのコメント欄が遠く離れた異国の人間によって発された、ヨァウヨとシモモヘで埋め尽くされているのを見て、不覚にも心を動かされてしまったのである。)
「ヨァウヨ」「シモモヘ」は、元となった中国語とは無関係である。あくまでも、この2語は、未来の魔法のランプたるコンピューターにより、作られ、生み出された、1つの奇跡であり、新たなる単語である。
そして、日本語において、完全に単語が不足してしまっている「極限のポジティブさを持つ軽快な全肯定」という1つのニッチを、完全に過不足無く埋める事の出来る、我々が追い求めていた単語である。
即ち、日本語で書くのは困難だけれど、応援したい、肯定したい、ポジティブな方向でvoteしたい、という場があった時には、迷うことなく「ヨァウヨ」「シモモヘ」の二語を用いるべきである。少なくとも「がんばって!」とか「がんばれ!」よりは遙かに良い。(重ねて言うが、「がんばる」とは人間の奥底より生み出でる根源の生の力であり、他者が干渉すべきものではない。「がんばれ」をデフォルトの作戦として定義したドラゴンクエスト4は未来永劫糾弾の対象となるべきである。)
たとえば携帯のメールで、応援したい、肯定したい、ポジティブな方向でvoteしたい、という際には迷わずヨァウヨシモモヘである。「バイト頑張って!」などという日本語は、忌み嫌うべき最たるものであり、「お仕事頑張ってね!」なんてものは極限の欺瞞である。ひげぽんが頑張りたいのは仕事ではなく子作りである。
あるいは、バカにされ煽られているブロガーなり、コメンテーターなり、あるいはソーシャルブックマーカーなりを、応援肯定ポジティブにvoteしたいと思った際にはとりあえず、「ヨァウヨ」「シモモヘ」と言っておけばいい。擁護するのは労力的に不可能だし、何を書いても角が立つし、という場合には、ヨァウヨとシモモヘの二語を使ってやっていただきたい。
あるいは、「お礼は3行で」というルールが存在する場においては、「ヨァウヨ」「感謝すべき相手のハンドルネーム」「シモモヘ」と書けば、事足りる。正しく日本語の足りない部分を埋めるべく、電気仕掛けの魔法の箱が僕らの為にこの2語を、考え編みだし作り上げてくれたのである。
ヨァウヨ、シモモヘ。