Twitterの素晴らしさはBlogから合法的にコメント欄を取り除いたという一点に尽きる。



事実。ブログにはコメント欄があるが、Twitterにはコメント欄が無い。

ブログにおいてコメント欄ほど「あほらしい」ものはない。自慢げに揚げ足取りをはじめる者、突如として降臨する高知己説教屋、何かにつけていちゃもんをつけるもの、馬鹿丸出しの太鼓持ち、余所でやれとしか言いようのない自分語り。機能としてのブログのコメント欄はまったくの役立たずであり、不要品である。

しかし、Movable TypeやWordPress、あるいはfriendsterをはじめとするソーシャルブックマークサービスや、レンタルブログサービスによって世間に広まった、ブログにはエントリー毎にコメント欄が用意されるという「当たり前のこと」を覆すのは不可能である。

では、ブログにコメント欄は不要である、という認識を持つ人間の需要を喚起するにはどうすればよいか。その答えがTwitterの出した「これはBlogですか?」「いいえ、これはTwitterです。」という答えである。ブログではないのだから、コメント欄なんて無くても結構、という塩梅である。




Twitterの広まりが所謂ギークらから広がった、というのも然りである。

たとえばスティーブジョブスがブログを開設したならば、コメント欄は一瞬にしてゴミ共のパーティー会場になるだろう。そういった人達、つまり「他人のコメント意見というものをまったく必要としていない人達」にとって、Twitterは疑う余地の無い優れたツールであった。

Twitterにコメント欄は存在せず、Twitterのmyアカウントは純度100%自らの発言によってのみ埋め尽くされる。それは不可侵であり、糞の訳にもたたねえコメンテーターのつまんねえ文章によって汚される事は決してない。




コメント欄とは、つまり、「自らのページに他人が書き込める脆弱性」でしかなかった。たとえば、「コメントログイン制」にしても、「コメント認可制」にしても、「自らのページに他人が書き込めてしまう脆弱性」というコメント欄の根底はまったく揺るがなかった。

しかし、Twitterではもはやその心配はない。「自らのページに他人が書き込める脆弱性」は存在せず、自らのページ(twitter.com/ユーザーネーム)に書き込む事が出来るのは本人だけである。他人は一切書き込む事が出来ない。

その完璧なセキュリティ、己サイトの聖域化こそが、Twitter最大の長所であり、成功の根幹である。Twitterユーザーのホームページは一切汚される事なく存在し続けるのだ。土足で踏みにじられる事を運命づけられたblogとは対照的に。




もちろん、いくらジョブス(ここで言うジョブスは、仮想ユーザーとしてのジョブスであり、ジョブス本人を指すものではない。)であっても、コミニケーション機能は必要である。むしろ、選り好みしたコミニケーションが可能であるからこそ、階層としてのギークに受け入れられ、そこから下へと広がったのだろう。

しかし、コメントが付追されるのは「相手のページ」ではない。Twitterユーザーが書き込む事が出来るのは、あくまでも自らのページのみである。Twitterにおいてウェブページとは聖域であり、不可侵領域なのだ。そして、それこそが求められていたものなのである。

「自らのページは糞コメントで汚される事はなく、それでいて他人のコメントを受け付ける事が可能」それがTwitterのレボリューションである。空間を塀と空堀で囲い、垣根のあるワールドワイドウェブを取り戻したのである。

Twitterは、その成り立ちはどうあれど、事実として、現実として、ブログに嫌気が差した幾多のブログユーザーが願い望んだ「自らのページに他人が書き込めてしまえる脆弱性の排除」という夢を具現化させ、それを「Twitter」と名付ける事により、その一歩を踏みだしたのである。