2007年11月14日水曜日
過去ログはブロガーを縛り付けるための鎖ではない。
ブログのコメント欄でコメンテーターが得意げに、ググった過去ログ引っ張り出して「あれれ、前に言っていたことと違いますね」などとにやけながら嬉しそうにはしゃいでるのを見る度に、どんよりと沈んだ気分になってしまう。
「過去ログは何の為に存在しているのか?」
とうい問いに対する回答は、単純にして明確である。
過去ログは何が為にも存在しない。
過去ログとは事象である。かつて未来と呼ばれた物の残骸である。
過去ログがまだ生きていた頃。
即ち、過去ログが意志と未来であった頃。あの頃、過去ログは確かなる存在意義を持っていた。なぜならば、その頃はまだ、過去ログは意志と未来だったからである。今は過去ログと呼ばれている物が、ブログになってインターネットに放たれるよりもずっと昔。誰かの頭の中で、止まる事なく飛び交っていた頃。
当時過去ログは未来であった。
あの日過去ログは意志であった。けれども、それがインターネットに放たれた時にはもう、過去ログは未来ではなくなっており、意志でもなくなっていた。いや、それ以前。僕らがブログの投稿画面に辿り着きマウスカーソルをエディットボックスに置いたその時にはもう、過去ログは過去ログではなくなっていた。既に真っ赤に酸化していた。
肯定的に表記するなら、人は変わる事が出来る。
否定的に表現するなら、人は変わらずにはいられない。けれども、人が変化するということは、良いことでも、悪いことでもない。ただ、明確な事実として、人は変わるのである。変わりゆくものなのである。有史以来、不変であった人間は、ただの一人も存在しない。即ち、人は変わるが故に人であると言える。もしも人が変わらなくなったら、もうそれは人ではない。
「過去ログは、人に非ず」
これは、僕が昨日発見した驚くべき事実である。過去ログは、人ではないのだ。何故ならば、人は変わるものであるのに対して、過去ログは不変だからである。これは、明確な証拠である。何者も反ずる事の出来ないだけの、鋼鉄の根拠である。不動の事実である。過去ログは人ではない。そして、その事実は同時に、人は過去ログではないという事をも意味する。
全てが誤りだったのだ。
過去ログを人であるかのように扱っていたその前提こそが問題だったのである。過去ログは人ではないのだから、過去ログを人として扱ってはならないし、同じように人は過去ログではないのだから、人を過去ログとして扱ってはいけない。
「変わるもの」である人間と、「変わらぬもの」である過去ログは、決して同じではいられないものなんどえある。過去ログはそのまま動かずに止まるけれど、人はその場に止まる事は出来ない。みるみるうちに両者は離れて行くのである。それが目視可能な次元で生じるか、目視不可能な次元で生じるかは別として。どちらにせよ、過去ログと人とは、お互いがどんなに似た背格好をしていようと、気がついた時には、まったくの別物になっているのだ。
変わること。
それは、良いことでも、悪いことでもない。「変わらずにいようとあらゆる手を尽くしている人」ですら、物凄いスピードで変わり続けている。六百分の一秒の速度でオートマティックに連続でシャッターを切り続けても、その変化を正確に捉える事は出来ない。1フレームの間に、ワインの入ったグラスは風に揺れる黄緑色のカーテンに、山椒の若葉は飾り時計に、提灯は天狗に変わり、そしてまた、さらに別の物へと、変化してゆく。
問題は、どのように変わるかである。人は変わるのである。人は変われるのである。もちろん、なりたいようになれるわけではない。変わりたいように変われるわけではない。制御出来る部分もあれば、制御できない部分もある。
その制御出来る部分を少しでも多くする為に、過去ログは存在するのである。過去ログは変わらない。どこまで行っても決して変わらない。即ち私達は自分が何者であったかを思い出したいとき、わたくしという生き物がどのように変化したのかを知りたいとき、過去ログを読めばよいのである。それは自分のブログでもよいし、見ず知らずの人のブログでもよい。
そこには、一人の人間が、どのように変化し、どのような推移をたどってどのような変貌を遂げてきたかが表れる。一人の人間が、何を思い、何を考え、何を書いたかが表れる。そして、そこから何かを学び取り、自らの未来を変えることが出来る。明日の自分を変えることが出来る。正確に書き示すならば、「どんなふうに変わってゆくのか」を考えることが出来る。そのようにして、考えて、未来に対する責任を果たすことが出来る。少なくとも僕はそのつもりで書いている。わたくしの打鍵の1つ1つが見知らぬ誰かの未来の礎となるべくそれを願って書き続けている。
責任とは過去に縛られる事ではない。
理想とする未来に対し忠節を誓う事である。
即ち、僕らは過去ログなんてものに一切の責任を持つ必要はない。
ただ、未だ訪れぬまだ見ぬ未来に対してのみ、忠義を果たせばよいのである。
よりよい世界を。
よりよい明日を。
よりよいさらなる過去ログを。
..WE、NEED MORE。より多くの過去が可視化された世界を。