2006年5月13日土曜日

犬を飼う老人



「犬はいい。」と、はしゃぐ老人。
曰く、「いい犬だろ。」
どれも同じに見える。













条件がある。
犬である。




老人は哀れではない。
哀れであるとは思わない。

また、僕は老人ではないし、老人とも程遠い身であるからして、老人という全く異質、似ても似つかぬその生き物が哀れであるか、あるいは哀れではないかという問題について、なんの興味もわかないし、例えばその問いに対する回答文が「哀れである」であったとしても、「ふうん、そうなのか」で終わる話であるし、「哀れではない」であったとしても同様に、「ふうん、そうなのか。」で終わる話である。




いや、嘘を書いた。
正直に、あるいは正確に書き記すならば、その"ふうん"が出ぬのである。

それが、駄目なのだ。それこそが、僕が引き篭もりである原因であり、この、「ふうん」の不在こそが、真性引き篭もりたる所以なのである。

もしも僕が、引きこもりでもなんでもない、誰かのよき部下であり、誰かのよき同僚であり、誰かのよき上司であり、誰かのよき友であり、誰かのよき伴侶であり、誰かのよき子であると同時によき親であるような、まさしく一般的にして模範的な人間であったならば、「ふうん」「そうなんですか」「それは凄い」「へへえ」「それでそれで」「なるほどねえ」と、江戸へ上る大名行列のように長く途切れず中山道をひたひた歩き、峠の山の頂上の茶屋やら何やら(言うまでもなく如何わしい建物)の立ち並ぶ場所で「おっと、いい景色ですよ、ほら、御覧なさい、山です。山。あ、町。あ、人。あ、ほら、蝉が、あ、団子、団子食べましょうか。団子。」などといった具合に、面白くもなんとも無い、ありふれた退屈な光景(山だとか、町だとか、蝉だとか、団子だとか、セックスだとか、眞鍋かをりのここだけの話だとか、そういった類のもの)を、まるでとても素晴らしいものであるかのように有難がり、つい先ほどまではまったく興味のなかった事柄について「ああ、素晴らしい」「やはりこうでなくては」などと、褒め、褒めて、褒めちぎり、また、同様の褒め言葉賛辞の類を並べ立てている人間を見つけては「いやあ、あなたはいい事を言う人だ、前向きで、朗らかで、未来がある」なんて具合に心のそこから、あるいは完全なる上っ面で、すらすらと並べ立てることこそが、この世界を生き抜く(即ち、加速的速やか穏便に死に遂ぐ)上で、最も重要な要素なのである。




その、どうでもいい事柄について、どうでもいい言葉をつなぐという事、即ち一言に集約するならば「ふうん」の不在故に僕は引き篭もりなのである。

「ふうん」と、「ふうん」に続く言葉は、退屈さを退屈ではないものとして消化するための技術である。例えば、蓼で服を編むのは困難を極める難業であり、1つのブログのエントリーを書き上げるのと同じくらいに困難な作業だけれど、蚕を経由させさえすればシルクのドレスの出来上がりである。

僕にはその、退屈なものを退屈ではないものとして理解し、退屈なく消費する能力というものが欠けているのである。例えば風呂に入っても、「清潔さわやか気持ちいいだけで退屈だ」という結論から、風呂に入るのを嫌がる。嫌がるというよりも、入らない。同じように映画を見ても映画なだけで退屈であるし、ゲームが所詮ゲーム、どうせ退屈であるからして、退屈でやる気がしない。田んぼの真ん中で原油を掘り当てて(あるいは電話会社で首相になって)ロンドンのチームを買っても退屈だろうから、原油を掘り当てるのはやめにしたし、大統領になるのも、金メダリストになるのも、武空術を身につけるのも、退屈だからという理由でやめた。

つまるところ、僕は退屈さというものが嫌いなのだ。と言っても、退屈さをすっ飛ばして何かを得たいだなんて強欲なことはちっとも思っちゃあいない。

ただ、「ふうん」が不在なのである。
僕にとって、退屈であるか退屈では無いかなんてものは、些細な事だ。















「人生は退屈である」を体現する人と、「人生は退屈ではない」と信じる人との悲しいまでに噛み合わない言い争い、罵倒合戦その類は、太古の昔からリニア飛び交う未来の果てまでワンパターンに繰り返され続けてきた。それは、僕が知る限りでは、不毛の最たる二番目である。




ある時、即ち今しがた、「人生は退屈である」と主する人々が、得るものの無い泥沼のディベート合戦に蹴りをつけ、敢然たる勝利を手に入れるべく集まって、車座になり手立てを練った。

はじめから解っていたのは、彼ら「人生は退屈である派」が勝利を手にするためには、人生が退屈ではない言う奴らにその結論を覆させる必要がある、という事だった。

それは、難題であった。




「人生は退屈ではない」と信じる人間はどれも皆、頭がおかしい者ばかりだった。ある者は散った桜の花びらがカーベットのようになってどぶ川をたゆとう様を見て「人生は退屈ではない」と呟いたし、ある者はトレジャーの旧作を買い求めて「人生は退屈ではない」とその両眼を輝かせた。ある者はインターナショナルが退屈な引きこもりの末にペナルティーキックを蹴り込んでロッソネーロを下すのを見て「人生は退屈ではない」と発泡酒のプルタブを引っこ抜いたし、ある者は茶殻のようなブログの新着エントリーがRSSに乗ってやって来たことに嬉々として「退屈だ」と、退屈ではなさを謳歌した。まったくもって、彼らは狂っていた。少なくとも、彼らの目には、そう映った。

車座になって悩みぬいた人々が、どうにかしてそれ、即ち「人生は退屈であること」を、「人生は退屈ではない」と妄信する人々に、黄門様の御印籠の如くに見せ付け圧倒し、頭ごなしに言い包めて認めさせようと、悩みに悩みぬいた末にたどり着いた結論が「退屈では無い人生を送っていた人間を捕まえて、"人生は退屈だ"と言わせる事」であった。




そこで、また、彼らは、悩んだ。
「退屈ではない。」と最も多く唱えたのは誰か。
人類の歴史上で、最も退屈では無い人生を送ったのは誰か。

老いて、即ち隠居して、即ち老人となって、「よい人生でした」と言う人間が居る。そういう人間を捕まえて「どうしてそう感じるのですか?」と彼らに問うと、彼らは口をそろえてこう言う。

「よい人にたくさん巡り合えました」と。




ある者は妻を誇り、ある者は友を誇る。
ある者は子を誇り、ある者は師を誇る。
ある者は同僚を、同志を、その他諸々を、出会った人の全てを褒め誇る。

それはまるで、幸せな人生であるかのように見え映る。
「いいですねえ」とでも、呟きたくなる。
ならない?いやあ、なるだろう。
ならぬなら、なれ!
てめえらも、なれ!
なったか?よおし、それでいい。
そうでなくては話は進まぬのだ。
僕はぜんぜん、ならないけれど。







即ち、素晴らしい人生を過ごしたように多くの人が感じる、いかにも見るからに幸せそうな老人は、人との出会いを褒めるのである。

逆に言うと、人との出会いを褒め誇る人間は幸せそうなのである。
例えば、老いたビルゲイツが、貯金の残高をゆび指し示し「ぐへへへへ、よい人生でした。:)」などと言おうものなら、世界中の矢鴨という矢鴨が葱と鉄砲背負って襲い、ゲイツを蹂躙するだろう。

あるいは、老いたルイスアームストロングが並ぶ色あせたシャツの前でそれを指差し「見たまえ、これを!」と褒め誇り、よい人生だったと主張したならば、老いたドルゴルスレンダグワドルジが並ぶ色あせた旗の前でそれを指差し「見ろ、これを!」と褒め誇り、良い人生だったと主張したならば、老いたデイビットベッカムが並び輝く磨かれつくしたトロフィーの前でそれを指差し、それが綺麗に左右対称偶数、偶数、で並んでいることをゆっくりと確認した後で「見てください、これを!」と褒め誇り、良い人生だったと主張したならば、我々は、なにか、どこか、少し悲しい思いを抱かずには居られないだろう。

けれども、もしも、彼らが、即ちアームストロングやら朝青龍やらベッカムやらが、それら手に入れた物品、即ち世界全人民の極一部に消費された娯楽の一ページを記録したレアリティ★*5のがらくたではなく、出会った人を誇ったならば。

「良い人生でした、なぜならば、素晴らしい出会い(素晴らしい妻、素晴らしいファン、素晴らしい友、素晴らしい家族)に恵まれたからです。」と満面の笑みで褒め誇るを、彼らが口にしたならば、まったく違う感情を抱くだろう。たとえそれが、あの、ゲイツであったとしてもだ。




この、人生を美化する技術の肝は言うまでもなく人である。
人とは何か、というと、それは、多分人である。
そして言うまでもなく、自己の複製である。

それは、巨大なブラックボックスである。
例えば、あるフットボーラーが、その完璧なシュートを、ドリブルを、積み重ねたゴールの数を、勝ち取ったトロフィーを、褒め、誇り、何よりも、誰よりも、素晴らしい人生であったと誇ろうとした場合、1つの不具合が生じる。それは、言うまでもなく、マラドーナであり、ペレである。あるいはベッケンバウアーであり、ジョルディの父である。

そのような不都合を避けるには、人との出会いを褒めればいい。
例えば、「よき妻に恵まれて」と妻を褒めれば、それがどのように良いものであったかはまったくのブラックボックスであり、外側からは一切除き見ることが出来ない。

この決して覗き見ることの出来ない出会いというブラックボックスが、かつてアントニオ猪木が世界最強であると信じた人々と同じ程度の脳しか持たない連中に幻想を抱かせ、「きっとそれは素晴らしいものだったのだろう」という、満足を与えるのである。








何を述べたいのか。
僕はまだ知らない。

何を述べるのか。
それはじきに、明らかになる。








即ち、僕はそれら、人を、人脈を、出会いを、素晴らしさの根拠とする人々に対し、思いつく限りの罵倒を浴びせかけたい。彼らを否定し、攻撃し、負け犬であり卑怯者であると断罪したい。何故ならば、僕は、僕を除く全ての人々と僕自身に対し、思いつく限りの罵倒を浴びせかけ、否定し、攻撃し、負け犬であり卑怯者であると断罪したいからだ。

僕はそのような、決して明かされることの無い、除き見られぬブラックボックスの中身として存在していたものを誇るような人間ではなく、その人生において勝ち取った、小さな、まったくもってくだらないけれど明確なもの(例えばmouz.philbotに対する勝利とか)を褒め誇る人間を賛美する。心の底から、一切の邪心なしに。




けれども、条件がある。
それは、その、これまで生きてきた人生において勝ち取った、小さな、まったくもってくだらないけれど明確なものを褒め誇る老人が、真に、自らが勝ち取ったものを褒め誇っている場合のみ、僕はそれを賛美する。心の底から、一切の邪心なしに。









彼ら、即ち「人生は退屈である」と主張する人々は悩みぬき、3人のサンプルを選び出した。ナポレオンと、コロンブスと、奈佐日本之助である。まず最初にコロンブスが「途中で死んだらしい」という理由で脱落し、次にナポレオンが「なんだかんだ言って負けちゃった」という理由で脱落し、奈佐日本之助が残ったが、誰も奈佐日本之助がどこの誰であるか知らなかったので、とりあえず人類史上最も退屈ではない人生を送った人間はナポレオンでいいや、という事でまとまった。奈佐日本之助は惜しかった。いい線までは行ったのだが。

そこで彼らは大変な苦労と、大変な努力と、大変な年月をかけて、多大な犠牲を支払いながらタイムマシンを完成させ、老いたナポレオンを捕まえて椅子に縛りつけテープレコーダーを突きつけながら、「人生は退屈だ」と叫ぶように迫った。

けれども、テープレコーダーを突きつけられたナポレオンは言った。
「人生は退屈ではない」と。

だって、突然変な人たちがタイムマシンに乗ってやってきて、DOTA allstarsとか、WoWとか、dia2とか、そういう凄い面白いゲームをいっぱいプレイしたし、あと、真性引き篭もりさんの物凄い面白い過去のエントリーとかいっぱい読めたし、全然退屈じゃないよ、マジで。などと、のたまう。俺が思うに、ナポレオンはもう駄目だな。




困った。
これだけ書きに書いて、終段にたどり着けない僕も困ったが、彼らはさらに困っていた。彼らとは即ち、「人生は退屈だ派」の人々である。

大変な苦労と、大変な努力と、大変な年月をかけて、多大な犠牲を支払いながらタイムマシンを完成させ、老いたナポレオンを捕まえて椅子に縛りつけテープレコーダーを突きつける所まで行ったのに、ナポレオンは「人生は退屈だ」と言おうとしない。それどころか、頑なに「人生は退屈ではない」といい続ける。より強固なものとして。

そこで、彼らは、座った人間の誰もが「人生は退屈だ」と言うように出来たハイテクノロジーな機械椅子を作り、そこにナポレオンを座らせた。すると、なんと、あの頑ななナポレオンが、遂に「人生は退屈だ。」と言い放ったのである。




彼らは歓喜した。
その執念のテクノロジーによって手にした勝利に酔いしれた。
食べては飲み、飲んでは食べて、喋り、叫び、歌い、死んでいった友に涙し、それから踊り、踊りつかれて食べて、飲んで、笑って歌い、少し眠って朝が来た。それから、誰もが鎮痛な面持ちで、ハイテクノロジーな機械椅子の前に列を成して並び、順番に腰掛けて呟き叫んだ。それでも、気分は晴れなかった。志し半ばで倒れて行った戦友を思い、肩を落として皆泣いた。




ここに、1つの結論がある。
人生は退屈ではない。

けれども、条件がある。
それが何であるかを、僕は知らない。


















老人は、誇る。
その犬を誇る。

土地を買い、屋敷を建て、広い庭を作り、鉄針付きの石壁で囲み、木を植えて、池を作り、高い模様の錦鯉を、数匹泳がした。けれども、鯉は泳ぐばかりで持ち歩けないので、老人は犬を飼い外に出て、腰掛け、待った。

「いい犬ですね。」
誰かが褒める。

「いい犬だろう。」
満面の笑み。

けれども、老人が手に入れたのは壁のあるだだっ広く、広大な、見渡す限りの大庭であり、犬ではない。それを理由に、犬を飼う老人は哀れであると主張するつもりは無い。




犬の速度は結構速い。
年老いた老人の思惑を超えた早さで育ち、瞬く間に、老人に並ぶ。



そこで老人は何を望む。
残されたのは2つの筋。

老人が死に、屋敷と犬が生き残るか、
犬が死に、屋敷と老人が生き残るか。
























犬には成れず、犬も無く。
生き長らえた。
ただ老いた。