2017年7月29日土曜日

実在しない架空の存在であるクソリプと、2017年に実在しているクソリプ有料制。

世界はクソリプに溢れている。
何故か。

世界はクソリプに溢れている。
それは、何故か。










世界がクソリプで溢れているのは、世界がクソリプに溢れているからではない。そして、クソリプをクソリプたらしめているのは、クソリプを行う人ではない。クソリプをクソリプたらしめているものは、「クソリプだと思う人」である。クソリプだと思う人が存在しているからこそ、クソリプはクソリプである。即ち、クソリプだと思う人がこの世界から一人残らず居なくなれば、自ずからクソリプは消え失せる。論点はクリアになった。クソリプを作っているのはクソリプを行う人ではなく、「これはクソリプだ」と思う人である。





「おはようございます」
これが典型的なクソリプである。


「おやすみなさい」
そして、これが典型的なクソリプである。




我が国の教育行政は失敗であった。我が国の政府は一丸となり、挨拶というものを推進してきた。朝ならばおはようございます。"おはようございます"、それはクソリプである。夜ならばおやすみなさい。"おやすみなさい"、それは典型的なクソリプである。もはやここに来て、議論は不可能。何がクソリプであり、何がクソリプでないかなど、論じるだけ無駄である。ジャスティンビーバーが「おはようございます」と書けば神対応であり、僕が「おはようございます」と書けばクソリプである。ブルーノマーズが「おやすみなさい」とリプライを送れば神対応であり、僕が「今日もかわいいね。素材がいいから何着てもかわいいんだよねー。花火デートしたいなー」と書けばクソリプである。こんな理不尽があるか。クソリプとは身勝手である。俺が、クソリプと、思ったからクソリプ。それがクソリプの正体である。クソリプはクソリプであるが故にクソリプなのだ。クソリプが何故クソリプであるかの論拠はそれだけ。俺が思うかどうか。それだけが論拠であり、それ以外の一切は存在しない。"わたしが気に入らないリプライ"。それがクソリプなのだ。




「おはようございます」はクソリプである。
「おやすみなさい」もクソリプである。
「おいしそう」もクソリプであり、
「かっこいい」も「凄い」も「かわいい」もクソリプである。


全部クソリプである。クソリプだと思えばその瞬間にクソリプである。"わたしが気に入らないリプライ"は全てクソリプである。気に入らないリプライは、たとえそれがリプライですらなかったとしても、クソリプなのである。リプライですらないのにクソリプ。即ち、クソリプとは、もはや、概念である。気に障ること、それがクソリプである。気に入らないこと。それがクソリプである。






このような事を書くと、クソリプを晒し上げ共通の仮想敵とする事で自らの正当性をアピールし、見知らぬ誰かとの一体感を味わいたい人達は口を揃えて言うであろう。「いや、クソリプというのはおはようございますやおやすみなさいの事では無い。あるいはかわいいねやSUGEEEのことでもなく、もっと具体的に、たとえばこういう例や、あるいはこうこうこうであり、こういった類いのものを私達はクソリプと呼んでいるのです。だってあなたもクソリプだと思うでしょう?」ほざけ。




クソリプとは、クソリプであると思う人が存在するが故にクソリプなのだ。歴史を遡れば、「あなたは素晴らしい王だ」がクソリプとされた。こんなふざけた話があるか。王を称えて素晴らしいと言っただけでクソリプ扱いされてやがて戦争に至る。あるいは「素晴らしい小説だ」もクソリプとされて全力で叩かれた。一体何がいけないのだ。素晴らしい小説を素晴らしい小説だと思い、素晴らしい小説だと言ったら「クソリプやめろ」。これが我が国の文壇である。文壇の分断である。←。また、「素晴らしい選手だ」や「素晴らしいアルバムだ」もクソリプとされた事実がある。歴史は正直である。歴史は嘘をつかない。ありとあらゆるリプライは、クソリプたり得るという事実は既に、歴史が証明してきたのだ。人類の偉大な歩みの中にクソリプは常に存在してきた。何故ならば、人類の歴史の中には常に「クソリプだと思う人」が存在していたからである。いいえ、ウィキペディアで人間の項をひらけば、「人間とは、何らかの存在をクソリプだと思うもの」とまで書いてある。クソリプとは、クソリプである。クソリプと思う人が存在すれば、たとえリプライですら無かったとしても、それはクソリプである。




では、どうすればいいか。
答はもはや明確である。

クソリプだと思う人を滅ぼせばよい。
核爆弾でも巨大隕石でも、なんでもよい。
クソリプだと思う人を一人残らず滅ぼしてしまえばいいのだ。


けれども、核爆弾や巨大隕石は簡単には実装できない。また、どれほどクソリプが有害である事を訴えたところで、「クソリプは迷惑である、故に人類は滅ぼさねばならぬ」などという主張はほとんど誰にも受け入れられないであろう。他の道が必要である。私達には他のアイデアが必要である。







さて。
遂に本題へと辿り着きます。

僕等のインターネットは、クソリプにどう対処してきたのでしょうか。これは、あなた方のインターネットの話ではありません。僕等のインターネットの話です。

答は単純、金です。
金です。




金。
それはこの世の全てである。


昨今、僕等の住んでるインターネットは、急速な勢いでクソリプ有料制へと舵を取ってきた。一番最初にクソリプ有料制を取り入れたインターネットは、アダルトチャット、即ちエロチャットだった。いつの時代も性欲は、最強の課金のトリガーだった。モニタの向こうで誰かが脱いで、それを見るだけなら無料。チャットを打ちたいなら有料。チャットが無いと脱がない。だから課金する。リプを送る。「おっぱい見せろ」。脱ぐ。儲かる。おっぱい見れる。みんな幸せ。

こうしてクソリプは有料化された。そうして始まったクソリプ有料制度は、もの凄い勢いで僕等のインターネットに広まっていった。僕等のインターネットは気がつけば、エロの存在しない、それでいてビデオゲームの存在する動画配信で埋め尽くされた。僕等はもうあの頃のようにネットサーフィンをしない。あの頃読んでいたブログを書いていた人達は、もうみんな死んでしまった。僕等は夜な夜な、誰かのゲーム配信を引きつった笑いを浮かべながら朝まで見ている。時にはクソリプを送りつけながら。

世界は猛烈な勢いで変わってしまった。

own3dやJustinTVといった吹けば飛ぶような夢見るベンチャー企業が将来の取り分を巡って小さなパイを奪い合っていた段階は一瞬にして終わり、グーグル、アマゾン、大連万達、テンセントや阿里巴巴といった、地球上に存在しうるプレイヤーの中でも、最大のプレイヤーらの戦場となった。そして、彼等の動画配信サイトの収益を支えているのは、広告収入や月額課金収入ではない。




そう。
クソリプ有料制度である。




何故グーグルなのか。なぜアマゾンなのか。何故万達であり、なぜテンセントなのか。それは、儲かるからだ。動画配信サイトとは名ばかりの、クソリプ有料制度が儲かる商売だからだ。後発のyoutubeLIVEを別として、他の動画配信サイトでは、収入の6割以上がクソリプである。動画配信サイトのクソリプ有料制は、この地球上に存在している課金システムの中で、SSRガチャにも匹敵する、最強の課金コンテンツなのだ。

金を払えばクソリプに、青赤黄色の色がつく。払った金の色でクソリプの色が変わる。更に金を出せば文字数制限が解除される。もっと金を出せばクソリプが金色に輝き、更に金を出せばクソリプが爆発する。上限まで金を出せばクソリプがレインボーである。しかも配信画面にオーバーレイして、画面中央にでかでかと巨大にクソリプる。もう、クソリプはクソリプではない。何故ならば、クソリプをクソリプたらしめているものは、クソリプだと思う人の存在である。巨大なクソリプが配信画面で七色に光り出した時点で、それはもうクソリプではなく、ただの現金収入である。発破エフェクトと共に爆音で飛び出るクソリプは、クソリプをクソリプだと思う人の心を完膚なきまでに吹き飛ばす。挙げ句、fendaに至っては、クソリプは有料だが、そのクソリプに対する回答動画を閲覧するには金がかかり、その金は質問者、回答者、サービス運営の三者で山分けされる。クソリプを受け取った人ではなく、クソリプを行った人までもが利益を得られる夢のような21世紀を僕等は生きているのだ。





今や、インターネットで一番もうかる商売の1つがクソリプ運営業である。グーグルが、テンセントが、アマゾンが、大連万達が、クソリプ有料制度を主要な収益源の1つにしている。人が存在する。発言が存在する。そこに課金する。クソリプとは夢である。人類の夢である。金のたまごを生む雌鳥であり、指先から溢れ出る砂金である。インターネットは進化の果てに、人々の発言に対する課金を実現してしまったのだ。無料のリプライは無視されるが、有料のリプライは読んでもらえる。あるいはそもそも課金を伴わねばリプライを送れない。月額課金を行っていない人はリプライを送ることすら許されず、月々5ドルの月額課金者だけがリプライを許される。様々な方法がある。どれも素晴らしい。素晴らしい世界である。「おっぱい見せろ」が励みになりますと感謝される世界と、少しも違わない幸福な我らのインターネットである。そんなシステムが僕等の世界を埋め尽くした果てに辿り着いた、「尻と胸のどちらが好きか」だとか、「好きなセックスは」といった、所謂典型的なクソリプが、有料であるが故に感謝され、許され、挙げ句の果てには中国共産党政府に目を付けられてサービスを停止させられるという、正に血で血を洗う、あなた方の住んでいる真っ当なインターネットとは別の世界の、僕等の健全なインターネットである。









インターネットとは、自由である。
誰もが自由に発言出来る場所である。
その世界において、発言に対する課金など、不可能であるかに思われていた。




「ハハ キトク スグ カエレ」5000円。
そんな時代は新聞と共に終わった。

僕等は活版印刷の時代には生きていない。
ここはインターネットである。
発言は無料である。

なのに。
にもかかわらず。
クソリプは有料である。





発言に課金を行う為の唯一の道筋は、誰かが発言を読んでくれるという保証に課金を行う事だ。それがクソリプ有料制度。人々の口に課金する唯一の方法である。1000円分のクソリプは、youtubeの場合は300円がyoutubeの収入になり、残る700円が配信者の取り分となる。クソリプは読まれ、クソリプは感謝され、クソリプが励みになり、クソリプが世界を回す。僕等はクソリプを崇める。僕等はクソリプを奉る。人々はクソリプを心から望み、僕等はクソリプで生きていく。クソリプが誰かを幸せにし、クソリプがこの国の経済を回す。もう既に、僕等だけでなくあなた方も、既にクソリプで生きている。クソリプで回った経済の、恩恵を受けて生きている。今日も感謝。クソリプに感謝。今も休まず世界経済を回し続ける、僕等の血であり肉である、有意義なクソリプに感謝をこめて。命の源たるクソリプに、この人生の感謝を込めて。












平和九大。


実は、我が国にも、有名なクソリプ課金制度があります。それが握手券です。初回限定音楽CDとは名ばかりの、握手券付きのプラスチックを大量に売りつけて、僅か3秒の握手という名のクソリプを、人々は有り金はたいて購入します。さて、ここで問題になるのは、金です。金の問題です。




悪名高いAmazonの取り分は4割。
クソリプを受け取る人に、残りの6割が届きます。

悪名高いGoogleの取り分は3割。
クソリプを受け取る人に、残りの7割が届きます。





果たして、我が国の握手券という名のクソリプは、クソリプを受け取る人に、何割のお金を分配しているでしょうか。愚問です。0です。0割です。零割零分零パーセント。秋元康が様々な利益団体と共に作り上げた、握手券という名の、我が国のクソリプ有料制度は、一円の収益をも分配しないのです。いったい何をもって健全とし、いったい何をもって搾取と呼ぶのかの教養を、僕は持ちません。それでも、僕達のインターネットは、あなた方の生きている日本社会よりも、遙かにマシな世界のように思えます。話はここで終わります。











クソリプは、架空の存在です。
クソリプと思う人は存在します。
けれども、クソリプは実在しません。


これは、心の問題です。
クソリプと思う人の心の問題です。






クソリプなんて、札束で殴れば消えるのです。
クソリプとは、クソリプと思う人が、クソリプと思うが故にクソリプなのですから。







クソリプを有料化しましょう。
全てのクソリプを有料化しましょう。

いいえ、僕が今更言わなくても、あなた方のインターネットではなく、僕等のインターネットではもう既に、遠い随分と昔から、クソリプは既に有料でした。クソリプの有料化に失敗した人達が、クソリプを叩く事によって、奇妙な一体感を得て、たのしく盛り上がっているのです。



クソリプは存在しません。
クソリプだと思う人が存在しているだけです。
クソリプを叩きたい人が、大勢存在しているだけです。







クソリプは、架空の存在です。