2005年12月22日木曜日
せかいのはんぶんを受け取ることがどうしてイコールバットエンディングなのか。
せかいのはんぶんを受け取ることが何故故にイコールバッドエンディングであるのかという問題は常に人々を悩ませ続けてきた。あるものはそれを目的の喪失であるとし、諦めこそが人生における最大の罪であるという堀井雄二のメッセージであると考えた。またあるものはその受け取ったせかいのはんぶんを肉体であるとし、目先の人参甘い誘惑に負け流されて本当に重要なもの即ち精神、心、魂、強いては人生という物を悪に売り渡すことの危険性を解いているのだと考えた。そしてまたあるものはそれを、竜王が世界のはんぶん、即ち世界中のまんこというまんこを独占し、対して勇者には世界中のちんこというちんこが殺到したのだと考え、それを想像しては吐き気を催した。一部の男色家はその真逆を想像し、神はなぜ女などという低脳にして無能なる失敗作をはんぶんも造りたもうたのかと想像主に憎悪を募らせた。
そして、結局多くの人々、いやある意味では全ての人々は考えるのに疲れ果ててそれを、公式の設定集通りに「闇の世界を受け取ったからだ」とした。しかしながらそのような表っ面の公式文章を信じるなどとは、ゴジラを見て「トカゲの映画だね」と曰うアメリカ人や北京原人を見て「くだらない映画だね」と放言する映画通に匹敵する愚かさであり、愚の骨頂である。
シンキング。「せかいのはんぶんを受け取ることが何故ゆえにイコールバッドエンディングなのか」という問題について僕はこれまで考え続けてきたし、これからも考え続けるだろう。何故ならば僕は気がついた時にはもう既に、世界の半分を手にしていたからだ。
即ちシンキング。「せかいのはんぶんを受け取ることが何故ゆえにイコールバッドエンディングなのか」という問題について僕はこれまで考え続けてきたし、これからも考え続けるだろう。何故ならば僕はその答えをもう随分と前から知っているのだけれど、知らないふりをしていたいからである。
MMOというゲームジャンルをご存じだろうか。
エム・エム・オーの略で、エムエムオーと読む。
はやいはなしがインターネットのRPGである。
古くはウルティマオンライン、今で言えばFFXやワールドオブウォークラフトに代表されるようなMMOというゲームには、「オレ勇者」と呼ばれる人々が存在する。そして彼らは一般のプレイヤーから嫌われている。
オレ勇者とは何か。
それは、自分が勇者であるかのように振る舞う人の事である。
旧来のRPG、即ちドラゴンクエストやファイナルファンタジーにおいて、民家のタンスは勇者が中を暴く為だけに存在していたし、スライムは勇者が経験値を得る為だけに存在していた。即ち全ては勇者の為の世界だったのである。
プレイヤーが1人しかいないゲームにおいて、その振る舞いは何の問題も無かった。世界中のはぐれメタルをどくばりとドラゴラムで形式的に独占する事は可能だったし、世界中のたんすというたんす、引き出しという引き出しは勇者のものだった。
イエローオーブを最後に取るのも、ブルーオーブを最初に取るのも自由だったし、連射機を使ってメダルを増殖するのも、バグを使ってレベルを上げるのも自由だった。それはたった1人のプレイヤーに見返りと満足をもたらす行為に他ならなかった。彼らは正真正銘の勇者だったのである。
ところが、MMOでは事情が違う。
旧来のRPGではプレイヤーが1人だったのに対して、MMOでは世界が1つである。そしてその1つの世界には大勢のプレイヤーがいる。
その1つの世界の全てを「オレの為にあるもの」として振る舞うのがオレ勇者であり、そうではないと考える人達との間に軋轢を生み不和をもたらし、MMOというゲームジャンルに混沌を差し込ませ続けている。
オレ勇者を嫌う多くの人々は、オレ勇者を「間違ったプレイヤーだ」として非難する。MMOは1人の為に存在しているゲームではなく、多くのプレイヤーが共存する為の枠組みであり、他人に配慮して仲むつまじく遊ぶべきであると主張するのだ。
けれども、オレ勇者は"間違ったプレイヤー"などではない。1つの正しいプレイヤーである。オレ勇者とそうでない人々との違いは、認識する理想の世界の違いである。即ち、オレ勇者とそうでない人々との唯一の差異は、認識する理想の世界の違いでしかない。
オレ勇者は「オレの為に皆が存在する」というものをMMOに求め、それが実現されなかった時は他のプレイヤーを罵倒したり、不満を述べては抗議して、ああしろこうしろと命令を繰り返す。
対してそうでない人々は「皆の為に私が存在する」というものをMMOに求め、その自分と皆とのにこやかな関係に割り込んでくる存在、即ち「私を独占しようとするオレ勇者」に対して憎しみを募らせる。
即ち、オレ勇者という1つの問題は「正しさと誤りの対立」でも、「幼さと成熟さの対立」でも、「我が儘さと社会性の対立」でも、「非常識と常識」の対立」でもない。そして驚くべき事に、それは「理想と理想の対立」でも無いのだ。
オレ勇者は全てを思い通りに運ぼうとし、オレ勇者ではない人達も全てを思い通りに運ぼうとする。両者ともに無い物ねだりで違う理想を追い求めているように、一見は見える。
けれども、そのような話ではない。
理想と理想の対立などという問題ではないのだ。
100円を手にしていたあなたに誰かが近づいてきてこう言った。
「50円は君にあげる。だから残りの50円は僕にちょうだい。」
「ふざけるな!」
きっとあなたはそう思うだろう。
単純な話である。
世界は既にあなたのものなのだ。
告ぐ。
100億万人の勇者達へ。
世界はおまえのものだ。
金持ちはおまえが嫉妬する為だけに存在しており、貧乏人はおまえが見下す為だけに存在している。そして貧者はおまえが哀れむ為だけに存在している。
美人はおまえが視姦する為だけに存在しており、美人の恋人はおまえがやっかむためだけに存在している。そしておまえはおまえが快楽と虚しさを得る為だけに存在している。
雨はおまえが傘を差す為だけに降り、風はおまえの目の前の女子高生のスカートをめくり上げる為だけに吹く。目白はおまえが心地よさを感じる為だけにさえずり、鶏はお前が安眠を妨げられた怒りをぶつける為だけにけたたましく歌う。
プロ市民はおまえが嘲る為だけにシュプレヒコールを繰り返し、ネット右翼はおまえが呆れる為だけに荒唐無稽を繰り返す。そしておまえは常に自由だ。何故ならおまえは勇者だからだ。
告ぐ。
100億万人の勇者達へ。
せかいの全てはおまえのものだ。
曙はおまえの為に太っている。
太陽はおまえの為に輝き続ける。
森善郎はおまえの為に失言を放つ。
プレートはおまえの為に動き続ける。
美しく階段状に並べられた例文はおまえが「たったの4行か」と馬鹿にする為だけにたったの4行で終わる。全てはおまえの為だ。全てはおまえが思う為、全てはおまえが思わぬ為だ。世界の全てはおまえのものだ。
告ぐ。
100億万人の勇者達へ。
せかいの全てはおまえのものだ。
津波はおまえが目を背けたくなる為だけに腐乱死体の山を築く。
変質者はおまえがやるせなさを抱く為だけに幼女を誘拐して殺す。
不世出の英雄はおまえが感慨を受ける為だけに志半ばで逝ったのだ。
告ぐ。
100億万人の勇者達へ。
世界はおまえの為にある。
勇者よ、真の勇者よ。
宿命の勇者よ。
告ぐ。
100億万人の勇者達へ。
世界は全ておまえのものだ。
告ぐ。
100億万人のたった1人の本物の、完全無欠の勇者達へ。
おまえは勇者だ。オレ勇者だ。全てはおまえの為にある。