2008年4月6日日曜日

アウトライン無惨



ネットで出会った若くて綺麗な女の子とネット恋愛をして朝までスカイプしてぞっこんになって一緒に暮らすつもりで部屋まで買ったのに会ってみたらキスはおろか手を繋いでさえもらえなくてそれから数ヶ月音信不通でも諦めきれなくてなんで連絡来ないのかと悩んだりして思い切って三行半突きつけてさっぱりして新しい人を好きになったりしてでもうまくいかなくて諦めてそれでも夢を見たりして苦しくなって自殺。


というブログが仮に存在していたとして、「そういうふうに読まれること」と、「そういうふうに読まれないこと」はどちらが良いのだろう。


定かではないが、「そういうふうに読まれないこと」の方が良い事なのだと信じている人が圧倒的に多いように見受けられる。いや、断じて読むべきではないのだ、という強いメッセージすら感じられる。如何なる場合もブログなどというものは無視するべきなのだというような。僕はブログは全てを凌駕すると思っているような真性のブログ人間なので、そういう空気に酷く戸惑う。


ブログという、血肉を削って書き続け、記録し続けた自らというものが、完全に無視される。それはブロガーにとって幸せな事なのだろうか。*その方がよいことだから*と、まるで無視されることが、よいことなのだろうか。何を。誰が。


これはそういう事なのではなくて、「この場合その方がよいことだから」と無視されたのかもしれない。つまり、社会に貢献した素晴らしい良い人物の歴史からは、ネガティブな事柄は全て取り除いて記録され、悪い人物の歴史にはそれとは対照的に、ポジティブな事柄は全て取り除かれ、ネガティブな事柄のみが記録される。そんな単純な話ならば、それはそれで、わかりやすくて良い。良くはないが。


いや、彼らは別に無視しているわけではないのかもしれない。つまり、ただ、ブログなどというものを真面目に読んでいないだけで、真面目に読む気も毛頭無いだけなのかもしれない。そうだとしたら、どうなのだろう。リップとでも言っておけばいいのか。





そこでちょっと思い立ちました。


保存しなくては。


弾幕を。


シューティングゲームが消えてなくなってしまう前に、この芸術的な弾幕の数々を保存しなくては、と。



ふと、この一文が頭に浮かんだ。



保存すべきだけの「芸術的なもの」を残せる人間がどれだけ居るだろうか。書き残すべき「偉大な物事」を成し遂げられる人間がどれだけ居るだろうか。居まい、居まい。僕等はJSバッハでもなければ、ウィルライトでもフェリーニでもない。


それだけではない。「保存したい」と思うだけの愛するものを僕等は持たない。氏のように愛を語れるだけのものを僕等は持たない。何かを愛せた事すらない。愛するものなど1つもない。後世に残したいものがない。保存したいと思う事などない。ただ、壊したいとか、潰したいとか、皆殺しにしたいとか、、、。破壊衝動ばかりだ。愛などない。思いなどない。


自分自身は誰かを愛するに値すると思う事の出来る人間がこの世界には無限に存在している。同じように、自分自身は誰かに愛されるに値する考える人が、今現在も幾十億と存在している。キスをして、抱きしめて、結婚して、子供を作って、、、、。それが正しいとされる世の中なのだ。


「私が消えてなくなってしまう前に、この醜く愚かな思考の数々を保存しなくては」という思いは彼らにとっては、間違ったものなのだろう。記録すべき事柄ではないのだろう。否定されるべきものなのだろう。無視されるものなのだろう。幾らかの人々にとって、ブログというものは生の道のりを記録するツールではなく死への道のりを記録するツール、レコーディングdieなのだ。しかし世の人はそれを認めない。保存するに値するのは美しい生であり、あるいは生への衝動であり、祈りであり、願いであり、愛であり、おまえ達のはそれに値しないと無視するのだ。無かった事にされるのだ。そして彼らはベッドに入り、キスをして、抱きしめて、結婚して、子供を作って、、、、。それが正しいとされるのだ。いったいどこをたゆとえばいい。