2006年1月13日金曜日

だから僕は嘘をつく。




昨日のニュースで「人づきあいがうまくいかなくて」とか言ってた登校拒否の高校生を見たときは「じゃあ、行かなきゃいいじゃん。っていうか、あんたの父親は嫌なこと我慢して働いてるんだから、甘えるな」と思ってしまった。私の感覚はもう若者よりおじさんの方に近くなっているのだろう。



例えば僕はコカコーラについて書こうとしているのだけれど、数ヶ月前に書こうとしたものの、途中で思考が失敗してしまって酷く混乱コンフューズし、そのまま放置しっぱなしのこれが先だろう、という自分の中でのけじめのような物が暴れ出しはや数日。どうせこの辺りは少なくとも現段階では決してまとまらないのだから、まとめる気など起こさずに、今書ける範囲の内側だけを書こうと思うに至る。






この文章の最も大きな愚かさは、子持ちの父親と高校生を比較して、高校生の方を甘えるな、という表現で罵倒しているという点にある。父親と高校生、という二者は比較できるような関係には無い。前者はセックスをして中出しをして子供を作った。対して後者はそのような事柄を行っていない。


つまり、その父親が「嫌なことを我慢して働いている」のは、彼が得た既得物に対するコストを支払っているにすぎない。セックスの対価、中出しの対価、家族を持つ対価、自身の不完全クローンを持つ対価、自身が権力者として振る舞える児童を得る対価。


父親は少なくとも中出しセックスという甘い汁を吸い、幾多の既得物を得たのであるから、そのコストを支払うのは当然の事である。それらを手に入れるだけ手に入れて、コストを支払わない、という選択を行ったならばその父親、所謂義務を放棄した駄目親父、という人間は世間から強く非難される事だろう。即ち高校生には「行きたくないならば行かなければいい、ただし自己責任で」という論が通じるのに対して、父親には「行きたくないならば中出しするな結婚するな」という時間を遡った説教が可能である。即ち片方は行かなくても構わないのに対して、片方は行って当然なのである。この両者を並べているという時点で、片方を弁護し片方を晒すというねじ曲がった意図によって生成された文章であると言える。


即ち、男性にとって、あるいは女性にとってもセックスというのは最も安価な娯楽であると同時に、庶民に手が届く範囲では最も高価な娯楽でもある。





父親と高校生、という二者を論じるに辺り最も僕が不安を感じ、投稿ボタンまでの道すがらを遮っていた考えは、「子は親を選べない、けれども親も子を選べないではないか」という仮の反論である。


確かに、子は親を選べない。
けれども同時に親も子を選べぬのである。


こんなものはいらない、というレベルの子供が出来上がる事もあるし、おまえがいなければ、といったレベルの子供が生まれてくる事もある。同時に子の側にとってもトラウマの第一要因は親であるという話が象徴するように、この親さえいなければ、この親でなければ、というのは多いにある所だろうと思う。


その場合にどちらを悪者として扱うかについてだけれど、やはり僕は親の側を悪者とするべきなのではないかと思う。少なくとも親は子供を教育し育てる事が出来るのに対して、子は親を教育する事も出来なければ、育てる事も出来ない。また、子供は少なくともセックスも中出しもしていないのである。





ただし、ここから先が僕を混乱させた事柄である。


親は子の為に働く。
対して子は親の為に何もしない。


この断絶とも言える格差をどう受け止めればいいのかが理解出来なかったし、今も理解出来ていない。子は親の為に本当に何もしないか、という点については多少の違和感がある。例えば「君の笑顔を見るだけで」といった甘ったるい言葉に象徴されるように、まっとうな親にとっては子の存在だけでその他尽くの物事よりも大きな存在となるのだと思う。
それでも、それでも子は親の為に何もしていないのではないか、という疑念が消えない。





もしも仮に子は親の為に何もしないというのを真であるとすれば、親はその親から借り受けた「一方的な奉公」という功徳を、20年あるいは30年の後に放出しているだけである、という考え方が出来る。出来る、というかその考えに捕らわれてしまって僕は酷く困惑した。


仮にそうであるとしたら、親から子への愛というものを、世代間の一時預かりであるとすれば、中出しセックス即ち子作りを行わない事こそが一方的な享受、甘い汁の総取り、義務の未遂行であり、悪なのではないのか。


そして、その悪に最も近い「ひきこもり~NEET~フリーター」というラインこそが世の中における最も悪しき階層であり、上の一文における「人づきあいがうまくいかなくて」と言って登校拒否をする高校生こそが、実は本物の無責任なのではないか。


そのような事柄を少子化などともリンクさせてああでもない、こうでもないと考えていると、本当にわけがわからなくなった。





当初抱いていた投稿ボタンまで辿り着こうと考えるに至った「中出しをして既得物を得たのだからそれに伴うものを納めるのは当然であり、対してそのような既得物を一切得ていない高校生は自由であって当然である」という、得ている人vs得ていない人、という構図が完全に崩れ、「得たものを放出した人vs得たものを放出する意思が無い人」という構図になってしまった。それは正しく、自分の中にあった善悪の構図が逆転と言ってもよい事柄であり、即ち僕は混乱したのである。





あらゆる物事は単純ではなく、どちらが悪いかなど言えるものではないという事を理解していながらも、僕は単純であるからしてどちらが悪いと言い放たずには居られない性質である。だから少なくとも現段階の結論としては以前に書いた結論を踏襲し、その父親には所属するグループ即ち守るべきもの納めるべき義務があるのに対して、高校生にはそれらが無い。即ち悪いのは全部














「世の中には悪い奴なんていないよ」ってのは嘘だ。
「世の中には悪くない奴なんていないよ」ってのが真実だ。





だから僕は嘘をつく。
世の中には悪い奴なんていない。
僕らはもう少しだけ言葉を交わせばなんだって、全て分かり合えるんだ。