2006年1月20日金曜日

トラックバックを行わないという意味合い。



真鍋かをりについてウェブ上で文章を書いた人間の多くは、真鍋かをりがその文章を読むという事を想定せずに書いている。そして、読者もそれを理解している。

ところが、これが真鍋かをりではなく、普通のインターネッターについてウェブ上で文章を書いた人間の多くは、当人がその文章を読むという事を織り込んでそれを書いている。




当人が読むことを前提とした文章と、当人が読むことを前提としない文章は、どちらが良い悪いではなく、まったく別の文章になると思う。

そして、ブログ時代のインターネットでは後者、即ち当人が読むことを前提としない文章というものが死に絶えてしまっているように見える。

今では他者への言及は全て馴れ合いでり、距離感のある平凡な文章というものが成り立たなくなっている。馴れ合い以外に敵害行為、というものもあるではないかという反論は聞くに値しない。なぜならば現代のインターネットにおける敵害行為のそのほとんどは馴れ合いだからだ。

例えばはてななどでは、idを書くだけであるいはURLを書くだけで「当人が読む」という状況になるように設計されており、その思想、即ち「言及は当然にして当人が読む事を前提として書かれる」という思想にどっぷりと浸かった人々で満ちあふれている。




即ち「トラックバックをする理由」というものが語られそれに関する理解が知識として蓄えられているのならば同時に「トラックバックをしない理由」というものについても語られるべきなのではないか。

無論の事その第一には「トラックバックは手間が掛かって面倒だ」というものが来るのだろうし、来るのだと思う。あるいは「トラックバックしてまで読ませる程の文章ではない」といったものもあるのかもしれない。

しかしながら僕は手間が掛かって面倒な事をするに十分な時間を有しているし、トラックバックしてまで読ませる程の文章ではないなどという自己基準における判別も行っていない。そもそも全宇宙を探して回っても読むに値するブログなど存在しないのである。




即ち、僕は自らがエントリーを書くに辺り、リンクを貼るか言及するか固有名詞を用いるか、あるいはそうでないかという事を一定の指針と直感に基づき判断しており、それと同じように「トラックバックをするか/トラックバックをしないか」という点についても、一定の指針を持っている。

それは前述の通り、当人が読むことを前提としていない文章についてはトラックバックを打たない。対して当人が読む事を前提としている文章についてはトラックバックを打つようにしている。