2006年1月18日水曜日

嫌韓国と嫌コーラ



コカコーラ社は悪い事をやっている、だからコカコーラ製品は買わないという嫌コーラと、嫌コーラには意味が無い、と主張する両者のやり取りは内容ではなくその事自体が非常に面白く、また同時に滑稽なものであった。

それが本当に滑稽なものであったかどうかは別として、少なくとも僕はそれから底しれぬ滑稽さというものを感じた。より正確に言うならば荒唐無稽さと書いた方がいいかもしれない。

その第一の理由は、彼ら、即ち嫌コーラ派の30代の女性会社員と嫌コーラ否定派のfinalventは共に「ブログに書くという事は世界を変えるという事である」と、どこかしらで信じており、それを議論の前提条件として織り込んでいるという点にある。

始まりの嫌コーラ主張をブログに書くという行為を30代女性会社員は、放言書き捨て言いっぱなしといったカテゴリーのものではなく、アクション即ち行動というカテゴリーとして扱っており、「実際にコカコーラ社製品を買わない」という行動ではなく、「実際にコカコーラ社製品を買わないという私律をブログにて発信する」という行動を取っている自分は、何もしない人達よりは少なくとも幾分かはマシである、としているのである。彼の定義では言説、それもブログのエントリーに書く、という事こそが「アクション」であるとされているのである。

対してfinalventの主張は嫌コーラ自体が間違った行動であり、と王道の批判を行いながらも30代女性会社員に対する決定的な優位性を示すために彼が提示したのがダルフール虐殺である。

そして言うまでもなくfinalventはダルフール問題についての事柄をブログのエントリーに書く、という事を「アクション」として分類し、それを「アクション」であるとして行っている。

それは本当にアクションなのだろうか、それは本当に行動なのだろうか、というネットとリアルという極めてオールドタイプな対立軸から両者を見た時に、彼らは同じ側、それも少数派の側に立っており、その極めて少数の側の人間同士が言い争っている、という点において僕はこれを奇妙だと思い、同時に滑稽であるとも感じたのである。




finalventが単純な純粋嫌コーラ批判を諦めて、その末尾に「世の中にはもっと悪い奴がいて、もっと悪い事が起こっているんですよ」という極めて単調な説教を付け加えた事により、絶対評価絶対批判としての純粋嫌コーラ批判は死んだ。

なぜならば「世の中にはもっと悪い奴がいる」だとか「世界のどこかではもっと悪い事が起こっている」なんて事は、もうみんな、誰だって知っている事だからだ。そして彼がその主張を行うに300万の人命と人権、というものを持ち出したとき、この2人の論争は事実と興味、真の行動を巡る極めて一次元的な単純論争というフィールドから、それは相対評価相対批判という、単純な不幸自慢というフィールドへ落とし込まれたのである。

そのフィールドにおいては、より不幸な事件を知っている方が勝つし、より凄惨な事件に興味を持っている方が勝つ。少なくとも傍観者はそう判断する。即ちfinalventは話の通じない30代の女性会社員という人間の相手をする事に疲れて勝ちを急いだのである。僕はいわゆるblogとしてそれを書くことが無価値であるとは思えないけれど、たかだか1人の人間との諍いに勝利する為だけにそれを持ち出すという愚かさに全てが塗りつぶされてしまったのである。

そして即ちそれは「環境と人権」という嫌コーラ派と「人権と人命」という嫌コーラ否定派との争いであり、ほとんどまったく同じ命題を信仰する者同士の言い争いであり、しかもそれとの闘争手段の第一がブログにエントリーをあげるという、世の中からは乖離した少数派同士の非常にメルヘンチックな絶対是ウォーという様相を呈してしまったのである。




どうして、人権、人命という正しいはずの絶対是を叫ぶ両者の争いがリアリティを欠いたネットバトルの範疇を出られず、一般の多くの人々にはまったく伝わらない滑稽などうでもいい闘いにしか映らないのか、という点について僕は1つの結論を得ている。

それは、一般の日本人は「人間であるだけで尊重された経験」も持たなければ、「生きているだけで尊重された経験」も持たないからである。そのような人権、人命の尊さというものは教育として上から押し付けられるものであり、現代人にとって人権、人命というその絶対是は学習こそしてはいるものの、体験としては存在しないのだ。そしてさらに言えば、それを教える側とてそのほとんどは学習であり、体験としては存在しない世代であると言えると僕は思う。故にそれらにはまったくのリアリティが無い。

我々は現代の社会において、他人を敵味方という単純な構図に置き換えて識別し、自分に都合の良い奴は味方、自分に都合の悪い奴は敵という区分を行って生きている。味方からは尊重されるが、それは「人間であるから」でも「生きているから」でもなく、ただ「味方だから」という理由である。同時に敵からは「人間であるから」でも「生きているから」でもなく、ただ「敵だから」という理由だけにおいて有形無形の敵対行為を受ける。栄花の果てに人権や人命が完全に死に絶えてしまった今現在の日本では、時として敵味方の境界線はとろけてしまい、「気分が優れない時は敵」「気分がいい時は敵」といった具合にあらゆる命題客観視とはかけ離れた場所で他者との関係を消費している。




世界は広すぎて100億人は多すぎる。過剰な情報を右から左へ処理する中で、人は人、私は私と傍観者化する大衆に埋もれて絶対是という絶対是は、質感温度は伝わらないのに情報だけは行き渡ってしまったこの高度電脳化社会において完全に、死に絶えたのである。いや、死に絶えてしまったのである。

現代の多くの日本人の一般大衆は体験、経験としての「人権」も「人命」も所持していない。彼らは「人間であるだけで尊重された経験」も、「生きているだけで尊重された体験」もまったく持って所持していないのだ。それどころかそれらは往々にして踏みにじられる。

そんな彼らにもリアリティを体験、経験というものが存在している。それは、肉親からの愛である。多くの日本人の両親はその多少こそ違いはあれ、愛情というものを子に向けて注ぐ。それを受け取って育った日本人の人民は「親からの愛」あるいは「肉親への愛」というものにはリアリティを感じる。

だから彼らは肉親が殺されれば怒りを抱くし、肉親の人間的生活が踏みにじられれば怒りを抱く。けれども、どこの誰とも知らないような、何を喰ってるかもわからねえようなアフリカ人や、パソコンも叩いた事が無いような後進国の人間が殺されたり、その人権が踏みにじられたとてそれは対岸の火事であり、それを真に問題として受け止められるだけのリアリティは届かないのである。

そもそも「人権」「人命」という概念自体が元を辿れば肉親が殺される事への怒り、肉親あるいはそれに準ずる人々の人間的生活が踏みにじられた事への怒りから生み出されたものなのではなかろうか。そしてそれは形式化されて口伝筆伝による伝達が繰り返される中で湿度温感といったリアリティを失ってしまったのだと思う。

つまり、finalventと30代の女性会社員はなんらかの理由で、心理的親族の拡大、という行為を行っており、アフリカ人が殺された事をまるで肉親が殺された事であるかのように焦燥し、後進国の人間が非人間的労働を強いられている事をまるで肉親がそのような扱いを受けているかのように受け止めているのである。つまりこの両者は共にに異端であり、「問題意識があるかないか」という次元ではなく、まったく別の次元において普通ではないのである。

多くの日本人がそれら「遠い世界の出来事」を身近な問題として受け止り消費する事が出来るケースは、それを「遠い世界の出来事」そのものとして受け止める事ではなく、「これはどこでも起こりうる事である」と、身近な出来事の暗喩として消費するケースのみだろう。実際に、そのような遠い世界の出来事を持ち出して身近な問題を語ったり、逆に身近な問題を遠い世界の出来事とリンクさせて語る、という事は往々にして行われている。

即ちそれらのリンクさせて語る、暗喩として受け止めさせる、という手法は通用する部分はあるのだろうと思うが、そのまま伝える、という形では対岸の火事情報として右から左へ通って終わり、という事になってしまうのだろうと思う。それは無関心が原因ではなく情報過多と反比例する世界の広さ、そして「下を見ればきりがない」という極めて単純かつ健全なメンタリティから来るものだと思う。




嫌コーラと嫌コーラ批判の掲げていたものは共に死に絶えた絶対是だった。だから両者には浸透力が無かった。なにしろ人々はより不幸な人がどこかにいる、という事は情報として知っているし、より悪く、悪い事で旨い汁を吸っている奴らが世界のどこかに存在している、という事も情報としては知っているし、世の中のあらゆる絶対是とそれを主張する人々だって、悪い側面を持っている、という事を知ってしまっているからだ。

情報が足りない時代に存在していた世界の果ての未開の地図のユートピープルは消え去り残ったもの、世の中には悪くない奴なんていない、という真実による絶対是の死である。

その現代において多くの人々に共通して機能するものがある。
それは、愛しい人を踏みにじられる事への怒りである。




日本人の多くが体験として持つ肉親からの愛、肉親への愛というものを踏みにじるものが登場すれば、それに対する怒りは誰もがリアリティを持つものとして抱くことが出来、それ故にそれは広まる。だから、嫌韓国は受け入れられたのだ。

ダルフールやコカコーラにおいて危ぶまれているのは日本人ではない。対して嫌韓、嫌中というものの被害者は日本人である。そして彼らが主張するに辺り語尾を強めるのは「あなたが危害を加えられるのではない、あなたの家族が危険に晒されるのだ」という恐怖による支配という構造である。

日本人が唯一ぎりぎりの共通絶対是として抱けている「親からの愛」「肉親」というものに対して危害を加えるものがそこにいる、それに対する怒りは抱くが当然であろう、という普遍性が嫌韓、嫌中というものに底の無い説得力を与え、それがインターネットに根付いているのである。




僕は嫌韓のバックボーンとして存在しているものは国への愛ではなく、それら体験や経験に基づいた肉親への愛であると考えている。嫌韓、嫌中には肉親への愛を利用する仕組みというのが組み込まれているのである。「確かにあなたに被害は今のところ及んではいないけれど」もしもあなたの肉親が中国人留学生に殺されたら「実際にそういう事は起こっているのです」もしもあなたの肉親が在日韓国人にレイプされたら「実際にそういう事は起こっているのです」もしも中国の毒菜があなたの子供の口に入ったら「実際にそういう事は起こっているのです」

それらは、そう主張される。
けれども多くの人民にとって肉親が殺されるなんてイベントは存在しないし、肉親がレイプされるというイベントも存在しない。それらは確率的な距離から言えばダルフール虐殺と同じくらい、あるいはそれ以上に遠い対岸の話なのである。

けれども、嫌コーラやダルフールと決定的に違うのは、感情移入が可能であるかどうかという点である。つまり嫌韓の軸には極めて単純な怒りと悲しみのドラマを求める人々がいて、昔の人々が赤穂浪士や白虎隊、太閤さんにそれを見出したのと同じように、怒りと悲しみのドラマに感情移入した、韓国ドラマやワイドショーにも劣るような探偵ファイルや2ちゃんねる系ブログといった俗悪なメディアを楽しみ消費するインターネット人民がそれら嫌韓/嫌中という非日常イベントの怒り捌け口へと殺到しているのである。

これは極論であり、極論であるとも自覚しているのだけれど、たとえば単純嫌中の人間が肉親を中国人に殺されたならば、その人は単純嫌中的な感情を放棄せざるを得ない状況に追い込まれるのではないか、と僕は考えている。嫌韓、嫌中はあくまでもリアリティを感じられるリアルではない都合のいい娯楽ドラマであり、それがリアルになったときにその 勧善懲悪さは死んでしまうだろう。




同じような事、即ち距離と感情移入という現象JRの列車事故でも現れていたように思う。マンションってのはアルファブロガーでも簡単に買える代物では無いらしく、「マンションを購入して家族で暮らしている」というのは多くのインターネッターにとってリアリティが無い話だ。故に彼らマンションの住人は心情的にまったく持って保護されなかったし、憂慮されなかった。

対して自分ではなく「肉親が列車に乗る」というシュチュエーションは多くの日本人にとって避けがたく、自分ではなく「もしも肉親があの列車に乗っていたら」という想定の下で、列車事故の被害者に対する感情は、絶対是とまでは言わないまでも1つの趨勢を見た。

子細はさておき、少なくともその背後には我が身かわいさのさらに上を行く、我が肉親の可愛さ、というものが日本人の感情というものに強く覆い被さっているように思える。それが情報過多の末に辿り着いてしまった叩いて埃のでない人はいない全人類悪悪人時代における最後のリアリティだからだ。絶対是は死に絶えた。幻想は死んだのだ。




結局の所、人々は刺激を求めている。
多くの人々の人生は平凡でイベントも無く、退屈である。

即ち肉親が殺されて竹槍を手に復讐へと立ち上がる、などというシュチエーションはもはや無い。もちろんの事、平凡な一般市民の一生には、その手で正義という絶対是を行使する機会など訪れない。そして、それら平凡な人生に特別なイベントを求める感情が単純嫌韓、単純嫌中という憎しみの行使機会を完成させ、それら低レベルのイベントでは満ち足りないだけの人生を送った人生強者、情報強者、知的強者はさらに荒唐無稽なステップ、即ちコカコーラという仮想敵、先進国という仮想敵をそれぞれで完成させ、それらに対する正義を行動ではなく、ブログにおける言論、というアクションをもって1つのイベントとして完結させているのである。








結局の所僕が言いたいのは何が言いたいかというと、彼らには行動が無い。その点において嫌韓もダルフールも嫌コーラも全部同じである。どいつもこいつも口だけである。まったくもってくだらない。だから僕は彼らとは違いこの身この身体この魂、この行動を持ってそれら世界中の悪という悪憂いという憂いをこてんぱんに叩きのめして世界を改革するのである。

即ち、手始めに世界中の不幸という不幸、人権侵害という人権侵害、人命という人命が踏みにじられるを無くさせる為に全人類を滅亡へと導き、さらにはコカコーラ社のスーパー社長になってコカコーラ社を世界中に愛を満たすだけのスーパー善良企業へと変革さしめ、さらには韓国の人民という人民を完膚無きまでに再教育し、もちろん使う言語は世界中の言語の中で最も繊細にして美しい言語である日本語を用い、なんか道路とかもいっぱい敷いて近代化を推し進めて世界中を世界で一番素晴らしい日本にしてしまうのである、もうすぐ、今にも。