2006年4月6日木曜日



「桜は多くの日本人にとって特別な花だ」という根も葉もないうわさ話が本当のものであるとして、尚かつ僕が日本人であるならば、僕は少ない日本人なのだろう。




多くの日本人の場合、桜となんらかの思い出との間で密な関係が成立していて、桜の季節が訪れて桜の花を目にする度に、その今では遠くへ過ぎ去った出来事が蘇り、そこから何かを感じたり考えたりと、するのだろう。

夜桜の下で下品極まるどんちゃん騒ぎその類を乱々する人達を指して「おまえらに桜を愛でる資格は無い」などとかっこよく言い放つ人も中にはいるけれど、そのような人達ですら、桜に何か、あったのだろう。満開の桜に多様な志を誓ったり、頑なさを約束したり、弱気な不安に桜吹雪の春一番で立ち向かったりしたのかもしれない。

それら桜を尊重する事が1つの桜崇拝の形として成り立つならば、もはや桜の庇護下から完全に抜け出し、そのような、いわゆる桜を享受する事が出来なくなった人達が、怒りと鬱憤やるせない思いから桜を冒涜しようと躍起になる事だって、許されるはずだと僕は思う。

花見になんて一生行かぬ身分であるからこんな事を言えるんだろうな。




僕の中の何かが今はまだ真っ白白紙な桜と結びつけられたとして、僕は桜の季節を迎える度にそれを思い出す事が出来るんだろうか。例えば、このエントリーを一字一句。