ラッスンゴレライとセッションのロマン

ラッスンゴレライはエノラゲイリターンのアナグラムであり、「ちょっとまって」は実在したエノラゲイの弟機であり、8.6秒バズーカーは8月6日の広島原爆であり、コントの際の決めポーズは広島原爆公園の平和祈念像のポーズと同じであり、単独コントライブのポスターにおいて2人の指が6本になる画像加工がされているのは福島原発事故への揶揄であり、ラッスンゴレライが話題になるより前に韓国人の歌手がそれをコピーしたのは彼等が在日韓国人だからであり、インターネットで騒ぎになってから過去の反日tweetや反社会的tweetを慌てて削除したのは、まさしくそれら全てが事実である事の証左である。ラッスンゴレライとは、日本人への憎しみで凝り固まった在日韓国人の2人組が、日本に対する憎悪を全て詰め込んだ、コントの体を成した復讐であり、それを面白がる馬鹿な一般大衆を彼らは高笑いしながら眺めている。そんな話を目にしたあとで、全く同じパターンの話を目にした。セッションである。




セッションを巡る菊池の論考は、憎悪で煮えたぎっている。そこに込められているものは、彼が愛し人生にしているものを陵辱するセッションという映画に対する憎悪ではない。セッションという映画を有り難がる馬鹿な一般大衆に対する憤怒であり、憎悪である。

菊池のセッションに対する言動を複雑なものとしているのは、一般大衆の存在である。ジャズという娯楽に金を落とさない、自らの人生を含む全ての物事に無頓着な一般大衆は、映画という消費しやすい形の娯楽には金を払ってそれを楽しむ。しかも劇中に登場するジャズは本当のジャズではなく偽のジャズであり、劇中で演じられるジャズも極めてレベルの低い聴くに堪えないジャズであると菊池は断罪する。配給会社に要求されて憤怒を限界まで抑えて堪えに堪えて大人な態度で菊池が書いた宣伝用の文章は配給会社にdenyされ、セッションが公開された際にそれを絶賛する有名人の羅列の中に菊池はいない。そればかりか、ジャズ関係者は僅かに一人、しかもそのジャズ関係者は堪えに堪えながら言葉を濁しているではないかと菊池は憤り、憤った。言葉を濁した一人のジャズ関係者を除けば、セッションという映画を売っている人も、金を貰って荷担している人も、金を払って見ている人も、その全てが憎い。けれども菊池が真に憎んだのはそれを見抜けない一般大衆である。セッションという映画では無く、また映画の宣伝でもなく、その宣伝の本質を、そして映画の低質さを見抜けない一般大衆である。

それに対してああ注目を浴びる好機だとばかりに猫も跨いで通る人間が猫も跨いで通る文章で絡んで菊池の魂の憤怒を消耗させ、菊池の憤怒を消費しようとしたのは、インターネットの最もくだらない部分を象徴する光景であったけれど、セッションを巡る騒動はそこで一つの進展を見た。それが件のラッスンゴレライである。




セッションにおけるラッスンゴレライは菊池からではなく、インターネットのあちらこちらから染みだして、菊池の言葉を要所要所で拾いながら、気がつけばその形を成していた。ラッスンゴレライが8.6秒バズーカーによる復讐だったのと同じように、セッションもまた、デミアンチャゼルによる復讐だったのだろうと彼らは菊池の憤怒を読み解いた。




デミアンチャゼルは、ジャズスクールをドロップアウトした人間である。人の精神に最も深刻なダメージを与えるものは、他人から拒絶された経験で有り、また、努力が報われなかった経験である。ジャズスクールにおいてその2つを同時に味わったデミアンチャゼルは、歳月を重ねるだけでは決して回復不可能な痛手を負い、自らを全否定したジャズスクール、強いてはジャズ世界を逆恨みし、心の中で憎悪の炎を燃やし続けた。そしてその憎悪が遂に具現化したものがセッションだと、(菊池では無く)彼等は解いたのである。

セッションにおいてジャズは矮小化されている。低質な音楽を大判焼きのように量産する機関としてのジャズスクールが、まるでジャズ世界の本流を成す出来事であるかのように描かれているのは、デミアンチャゼルの狙いが、自らの痛み苦しみトラウマを癒やすために、自らの過去であったジャズを否定する為で有り、その目論見は一般大衆には決して露見しない形で成功している。ジャズとは縁遠い生活を送る一般大衆はセッションという大ヒット映画において描かれるジャズこそがジャズ世界であると思い込む。それに対して菊池のような人間は憤怒するが、それすらもデミアンチャゼルには心地よい。自らの半生を否定され、決して癒やされることの無い深い深い心の傷を負ってしまったデミアンチャゼルにとっては、ジャズに関わる人間を怒らせ、ジャズに関わる人間を消耗させ、ジャズに関わる人間の時間を浪費させる事は、復讐の成功を意味する。

セッションという映画においてデミアンチャゼルは一般大衆に矮小化された偽のジャズを植え付ける事に成功しただけではなく、同時に海の向こうの真のジャズの1つであろう一人の人間をも憤怒させ、消耗させる事に成功したのだ。そればかりではなく、セッションという映画は世界的な大ヒットを記録してしまい、とんでもない富と名声までをも手に入れてしまった。しかもその現象に対して菊池のような人間が怒れば怒るほど、デミアンチャゼルの復讐劇は完全なものへと近づいていく。セッションとはデミアンチャゼルの復讐劇であり、セッションが成功したのは、そこにデミアンチャゼルの人生の全て憎しみの全てが込められていたからだ。そんなストーリーが彼等の側から流れてきたのである。ジャズの側から流れてきたのである。それはまるでラッスンゴレライであった。












「ああ、インターネットだ」
と、僕は思った。



今ではインターネットはインターネットではない。
あの頃のインターネットとは全く違う世界だ。

いい話やシェア出来る話、くだらないベスト50や猫の画像がもてはやされる一方で、かつてのインターネットを覆っていたような怨念という概念は消えて久しい。憎悪はもうインターネットにはないのだ。そんな世界において、ラッスンゴレライとセッションを巡る陰謀論が僕等に思い出させてくれたものは、心の傷やトラウマ、他人に拒絶された体験や、夢や努力を否定された経験といった類いの負の感情というものが、人にとって果てしない推進力になるという当たり前の事実だ。現実世界に拒絶された僕等は不幸にも望まぬ形で、苦しみを動力にして動いている。そしてその場合、人間の憤怒の対象は、何故か当の相手ではなく、それに踊る一般大衆なのだ。












たとえば8.6秒バズーカーのラッスンゴレライがそうでなくても、たとえばデミアンチャゼルのセッションがそうでなかったとしても、菊池のセッションを巡る論考は正しくそれで有り、菊池はまるではしゃぐ子供のように嬉々として、自らの憎悪を語り、自らの憤りを語り、自らを害するものへの復讐を果たそうとする。

インターネットでラッスンゴレライを騒ぎ立てた人達が語る8.6秒バズーカーのラッスンゴレライがそうであったように、彼等が言う世界におけるデミアンチャゼルのセッションがそうであったのと同じように、一切の仮定も想像も入り込む余地の無いインターネットの世界の菊池はまさに、水を得た魚のように憤りを得た人間であった。




そこにおける共通項は、一般大衆の存在なのだ。

何故か人は一般大衆を憎む。
自分の思い通りにならない一般大衆を憎む。

特定の人ではなく、特定の相手に踊らされる一般大衆に憤りを感じる。
特定の物事ではなく、特定の物事を右から左に受け入れる一般大衆に憤りを感じる。

菊池の対象は映画そのものではなくそれに踊る一般大衆であり、デミアンチャゼルの映画もジャズではなく一般大衆に向けられ、想像上のラッスンゴレライの対象も一般大衆に向けられており、インターネットの彼等も8.6秒バズーカーではなく、8.6秒バズーカーに踊る一般大衆を対象としている。みんな同じなのだ。人は同じなのだ。自らの愛が努力が苦悩が、即ち人生が報われず理解されない苦しみは、一般大衆への憤りへと姿を変える。なぜかそこに突然、一般大衆という顔のない有象無象の存在が人の心に染み込んでくるのである。









嫌いは好きを上回り、憎しみは愛を凌駕する。

その人生において自分が本当に好きなものを見つける事が出来なかったインターネット上の無数の僕等は、インターネットで嫌いなものを探して叩こうとするし、愛に値しない無価値な人生が故にインターネットを漂う僕等は、だからこそ憎しみを探して今日もインターネットをやり続ける。

夢が有り、希望があり、目標があり、好きなものも愛するものも欲望も持ち合わせた架空の8.6秒バズーカーや架空のセッション、あるいは実際の菊池とは違い、何も持ち合わせていないインターネットの僕らは、自らを愛して受け入れてくれるものではなく、自らを否定し叩きのめしてくれるものを探しているんだ。そして自らを素敵に滾らせようとする。もはや私達彼等にとって、自らの人生を豊かにし彩ってくれるものは唯一、憎悪だけなんだろう。嫌いは好きを上回り、憎しみは愛を凌駕する。それどころかほとんど全ての僕達は、好きも、愛も、努力も人生も、そんなものない。あるのは顔の無い一般大衆と、それに対する憎しみだけなのだ。