2005年7月13日水曜日

演出過剰ブロガーへの不快感



サイバーリアルを問わず、自分自身を演出し、醸し出している人を見ると不快感を覚える。なぜならばそれは偽りの行為であり、詐称詐欺の類だからだ。



特にそういう不愉快さを覚えるのは、「FF8は実は名作!」だとか、「DQ5は実は糞ゲー!」だとかいうような、明らかに裏がありそうな話。そういう文章を目にする度に「他とは違う俺」という個の演出が行われていないかどうか必死になって嗅ぎまわり、チェッキングする。それ自体が「鵜呑みにせずに背景調べる違う俺」的な行動であり、そういう猜疑心を抱くタイプの人間であること自体が不愉快に感じられたりもする。
足りないのは素直さか。



「自分自身を演出する」というのはゲームに限らず不愉快。
「くだらねー日記にインテリジェンスな賢っぷりを混入する俺」「エロい話をあっけらかんと喋る私」「身も蓋もない事を言うけれど実は優しく人情的な俺」「頭が悪いんだけれど頑張って考えていますをアピールする俺」「実は隠れヲタク、それも筋金入りな俺」といったような、明らかに仮想に作り上げられた雰囲気のする文章、ブロガー人格を目にする度に「あんた、演出してんだろ!」的な不快感を覚える。

けれども、彼らは本当にそういう人間なのかもしれない。
賢い人が自然体でありのままに文章を書けばどうしても賢い文章になってしまうし、キザな人が自然体で嘘偽りなく文章を書けばどうしてもキザな文章になってしまう。エロ可愛いOLが自然体で文章を書けばどうしてもエロ可愛い文章になってしまうし、隠れシューヲタカルチャーな人が自然体で文章を書けば隠れシューヲタカルチャーな文章になる。棘のある人間が有りの儘に演出無く文章を書けば棘のある文章になるし、独善的で高圧的な人間がありのままに文章を書けば独善的で高圧的な文章になる。

それらを目にすればおそらく直感的には「不愉快だ」と感じるのだろうけれど、実はその不愉快さは「賢い俺」「キザな俺」「棘のある俺」「優しい俺」「エロイ私」という仮想人格、演出された自分という偽りに対する不愉快さではなく、「自分と相容れないものを認めない」という極めて差別的な価値判断による直感的不快感なのだ。

そういう「直感的な不快感」を「欺瞞への不快感」へすり替えるて正当化している自分自身が許せない。「ありのままに書かれた文章」というのは僕が最も愛し絶するタイプの文章なのに、それに対して不快感を抱きながらその不快感を容認している自分自身が許せない、ザ・糾弾。



結局の所、「演出された個性」なのか「ありのままの個性」なのかを見抜けない僕の瞳の節穴が罪、って事であり、わるいのはぜんぶぼくだ。悪いのは全部僕だ。



くそう、憎むべきは演出過剰なインターネットだ。

ありのままをさらけ出すという演出ではなく、ありのままをさらけ出せ!
事実は小説よりも喜なりであって、偽り過剰なブログ演出フィクションなんて読みたくは無い。ほんとうに面白いのは人間の書いた文章であって、ブロガーの書いた文章ってのはどれも決まってそうではない。演出はいらないんだよ。ほんとうのおまえはどこにいるんだ。出てこいこの野郎。出てこいほんとうのおまえら。出てこいブロガー。出てこい真。

出てこい。コラ。オイ。インターネット。