2005年7月8日金曜日

なぜ議論をしたいと思うのか、何を目指して議論をするのか。




でもなぁ。
議論ってのは有り有り有りでケンカ売るようなトラックバックでもしない限りは
なかなか起こらない物で、この辺のさじ加減はかなり難しい。



はっきり言えよ。














「俺は議論がしたいんだ!」って。
別に恥ずかしいことではない。


「俺は恋がしたいんだ!」とか「俺は馴れ合いたいんだ!」くらいの立派な発言だ。
胸を張れ!堂々と言え!




「俺は議論がしたいんだ!」って。
自らの趣味を誇りに思え。
胸を張れ!堂々と言え!













人はなぜ議論をするのか。
それは、議論がしたいからである。


一部の人達にとって、議論とはそれそのものが快楽である。
他の理由は後付である。







人はなぜ議論をしたがらないのか。
それは、議論がしたくないからである。


一部の人達にとって、議論とはそれそのものが苦痛である。
他の理由は後付である。





「議論をしたい人間が議論をしたくない人間に対し議論を仕掛ける事」
それは、自らの快楽の追求のために他者に苦痛を強いる行為である。


相手が議論快楽人間なのか、議論苦痛人間なのかわからない場合。
その場合は、必ず、肝心要の逃げ道を用意しておくべきである。





議論は、やりたい人達だけでやればよい。
僕はどちらかと言えば快楽と感じる人間だと思うけれど、議論をしたいとは思わない。
まず第一に、感情と思想の優先順位が非常に高いので、単純に言うと議論が出来ない人間である。また、しばらく寝かせないと文章が出来上がらないなので、インターネットのスピードについて行けない。この投稿にしても丸一週間経ってしまっている。だいたい書き始めるまでにそれくらいの時間が必要である。さらに、全人格を否定しながらそういう人間の存在を過剰に認めすぎるきらいもある。つまり、相手が変わる事に期待しない、望まない、という傾向があるので、その点で議論への欲求が湧かない。噛み合わない。ついでに、日本語が不自由であるのでその点においても物凄く大変。
正直、デフォルト設定では議論は不可能である。
デフォルト設定を変更すれば出来なくもなくもないことも無いのだけれど。





結局の所、議論とはやりたい人達だけでやるべきである。
僕はレッツゲレロンされても一向に構わないが、そんな物好きは滅多といない。





議論ってのは有り有り有りでケンカ売るようなトラックバックでもしない限りは
なかなか起こらない



ここがかなり疑問。
有り有り有りでケンカ売るようなトラックバックで議論が始まるとは思えない。
そこで始まるのはケンカでは無いのか。とりあえず、これは後回しにする。











人は何の為に議論をするのだろうか。


「快楽を得る為」という生き物としての欲求、銃無き国の戦争、言霊知的コミニケーションへの尽きぬ欲望といった、根源的な部分を抜きにして、である。







何の為に議論をするのか。
それは、相手を変える為であろう。
あるいは、自分が変わる為である。




ここで「相手を叩きのめし勝利する為だ!」などと即答出来る人間は生粋の議論人間。まず議論ありきの歩く議論、議論の野望、ニュータイプ。





普通の人間が議論を行うのは、「相手を変える為、あるいは自分が変わる為に議論をする」であると考えている。そこで、「人は本当に議論で考え方や生き方を変えるのだろうか?」という疑問が、僕にはある。





人間は如何にして考え方や生き方を変えるのか。
僕が思うその答えは、一応、有る。










「飽きたら」である。
人は飽きたら変わるのである。





それ以外の要素で人間という生き物が変化する事などあり得ないと僕は考えている。「相手に知らない事を教えてあげたら相手は変わった」というのはあるだろう。
けれども、それは、議論ではない。


持っていなかった情報を手に入れ、メタモルフォーゼして大きくなった。
それだけである。




双方が互いに所持している情報のみで言葉を戦わせる、つまりは議論をする事により、本当に人は変わる事が出来るのだろうか。変わったとしたら、それはきっかけが欲しかった、あるいは既に内部的に飽きていた、といったものなのじゃなかろうか、と感じる。





議論人間に問いたい。
あなた方は自分自身を変える為に議論をしているのか?また、議論の展開により自分自身の立場を根本的に変化させる事への覚悟は出来ているのか?


この2点に迷わずYESと答えられない人間は、自分自身が本当に"議論"をしたいのか、趣味としての議論で快楽を得たいのか、という点について考え直した方が良いと思う。


議論好きな人々の多くは、「勝利至上主義」という誰かを見下し叩きのめす事に快楽を得タイプ、あるいは議論くらいでしかコミニケーションが取れないコミニケーション不全の孤独人間であると感じる。










「人間は如何にして変わるのか」
この質問は回答者の人となりが出る。





「面白ければ変わる!」
と言うのが面白さ至上主義者。


「気持ちよければ変わる!」
ってのは、非常に現実的。


「儲かるならば変わる!」
と言うのは貧乏人。


「議論によって変わる!」
と答えるのは変態。


「恋によって変わる!」
と言うのはまったくモテない人。


「人との出会いによって変わる!」
と言うのは中身がからっぽな人。


「愛によって変わる!」
と言うのは嘘と真実の違いを理解できていない人。


「孤独によって変わる!」
と答えるのは、寂しい人。


「意志によって変わる!」
と答えるのは意志の弱い人。


「変わらない。」
と答えるのが意志の強い人。あるいは、悲観論者。
もしくは、真理。











話を、戻す。


話を、逸らす。





オレが送信する反論トラックバックというのは
「ゲーセンの格ゲー対戦台に投げ込む100円硬貨」
という感覚。



ってそれ、格ゲーだと思ってるのあんただけ!ハイスコア目指してぐわんげのeasyモードプレイしているプレイヤーの椅子の横に座って100円硬貨投じてるんだよ!気がつけよ!これだから2ちゃんねらーは駄目だ。決定しました。









お互いの拳と拳をぶつけ合うというコミニケーションも確かにある。
その意義は大いに感じる所であるし、それを否定するつもりも無い。




けれども、拳をぶつけ合わなくても両者大振りの右フックをぶんぶん振り回し、お互いの頬でその風圧を感じあう、くらいの吹けば飛ぶよな無傷の関係だってある。わざわざ躍起になってテンプル当てに行かなくてもいいじゃん。間違って当たってしまったら慌てて引き起こす、あるいは最初から当てるつもりだったと正気を装い適当に誤魔化す、くらいのもので。


だいたい、ブログなんでどこもかしこもいい加減だろう。
正確に言うと、ブログが適当なのじゃなくてブロガーがいい加減なのだ。


人間なんてそんなものだ。
事後解釈のいい湯加減だ。
やりたい放題好き放題だ。














話を、戻す。


何の為に有り有り有りをするのか。
何を目的として言及有り、リンク有り、トラックバック有りを行うのか。


そこで「議論がしたい」と答えては終わってしまう。
はっきり言うと、議論好きな人間はこれが最も多い。
それでは、駄目だと思う。何故ならばそれは最初に述べたとおり、自身の快楽の為に他者に苦痛を強いる行為だからである。スマートではない。あるいは、自己顕示欲な優越感を得る為ではないのか。それはそれでいいとは思うのだけれど、それはそういう事だと思う。


反論を書きたい、自らの主張をアピールしたい、という事以上の意味が本当にあるのかどうか。そうでないならば、議論を行う必要は無い。自分自身で完結させればよいのである。
もしも、相手に論述を求める、つまりは議論をするのであれば、それ以上の目的が必要であると思う。





「誰に、何を、何のために、伝えたいのか」
議論をしたいというならば、それをまず先に確認することである。
それを行うにあたり、議論を仕掛けるという形式が最善手であるかどうか。
それらを確認した上で「議論が必要だ!」と思うのならば迷わず仕掛けるべきである。





またmicroな話で言えば、言及リンク有りのトラックバックは何の為に行うのか。そして、それを実現するためのもっとも適切な手段なのかどうか、そして、それを選択するのかどうか、という点を考えてから行うという選択肢も、有ると、思う。








とりあえず、よろしくやりたい。
今すぐにでもよろしくやりたい。