2005年7月22日金曜日
おいしいものが食べたい。
僕にとって食事とは2つの点で苦痛であった。
赤の他人との同席を強要されるということと、おいしいと思えないものを無理にして食べねばならぬということの、2点である。
真性引き篭もりとなってからは、前者の苦痛は解消されたものの、後者の点で今も食べ物を食べるという作業は苦痛である。それでも、おいしいものが食べたいと思う。
食べ物をおいしいと思った事は、ほとんど無い。
その責任は食べ物の側にあるのではなくて、こちらの胃にある。
食欲のない時はどのようなものを口にしても、おいしいとは思えなかったりする。そして、僕の人生におけるその時というのは、食事という食事のほぼ全て、ずっとだ。
「ずっとである」
と言っても、おいしいと思った事が無いわけではない。
落涙するくらいにおいしいと思った食事も、いくつかは鮮やかな記憶としてある。
一番覚えているのは、鮎だ。
山椒と煮てあった。
それは体験した事が無いほどに旨くて、「これは何という魚か」と何度も聞いた。鮎という魚を知らなかったので、「鮎だ」と言われてもそれが何であるかがわからなかったのだ。あまりにしつこいので、けったいな子であるとされたのを覚えている。
鮎を食べた記憶は、それ1度っきりである。おそらくこの先もう二度と、川魚などという非現実的な食べ物を口にする事は無いのだろう。悲しくはあるが、食べたいとも思わない。
何度食べてもおいしいと思ったのは、蓮根だ。
根菜を執拗に食べさせられ続けた自分にとって、蓮根の金平は特別な料理であった。
これは今も食べたいと思う。けれども、蓮根がどのような食べ物であったのかという記憶がほとんど失われてしまっており、現実感が無い。
一度だけおいしいと思ったのは、太刀魚だ。
8センチか9センチくらいしか無い切り身で、酸っぱいミカンがふってあった。
それは信じられないくらいにおいしかったのだけれど、一度っきりのおいしさで、何年かしてまた太刀魚を口にした際に、記憶と現実の味の違いに失望させられた。
あとは飯蛸。
同様のフォルムをしたホタルイカというものを、おいしくないものとして記憶していた自分は、その記憶と現実の違いに感動した。それは、とてつもなくおいしかったのである。
けれどもその感動は「あまりおいしくないホタルイカ」という条件によって成り立っていたものであり、純粋に飯蛸であるとは言えないものなのだろうと思う。
おいしいものを食べたいと思う。
東洋製粉辺りが作った不自然なまでにスパイスの香る出来合いの空揚げ粉をまぶして揚げた空揚げを食べたいと思う。油から摘み上げたばかりでまだ油の抜けきっていないギトギトの空揚げを片っ端からほおばりたいと思う。
ぎざぎざに切られたにんじんとインゲン豆をまず最初に食べ尽くし、添えられたタマネギとにんにくを箸で丁寧に食べ尽くしてから、残されたステーキに米無しで、一心不乱に向き合いたいと思う。
ボイルしたてのソーセージを2本、酢漬けのキャベツと小さめのパンで挟み込み、大きくあけた口へ無理矢理に突っ込んでは強引に、水も飲まずに飲み込み続けたいと思う。
一番上の引き出しの中であっという間にヌカ臭くなった白米を懸命に噛んでいると、おいしいものを食べたいと思う。おいしいものを食べたいと思うのだけれど、これはおいしいものへの憧れなどではなく、食欲への憧れなのだろう。
結局の所、「おいしいもの」と「食べたいもの」がかけ離れている事からもわかるように、おいしいものを食べたいなどとはこれっぽっちも思っていないのだ。それでも、おいしいものが食べたいと思う。
おいしいものが食べたい。
なぜ夏だ。
なぜなんだ。