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「激昂しました、以上。」って投稿のどこを読んだらそんな間抜けなコメントが出てくるんだ。いくらなんでもずれすぎだろ。そんな絡みかたされても返 せねえよ。moonのバリスタタワーrushより返せねーよ。インソムニアのナーガタワーに不可能だよ。違うだろおおつねえええええええええええええええ ええええええええ!!!「ゴミはゴミらしく一生ゴミ箱アフィってろ。」って締めを目にして「ああこの人激昂してるのか」と理解できないって、どれだけ荒ん でるんだよ。いくらなんでも疲れた人生送りすぎだろ。googleで「儀礼的無関心」を検索してみてください。ネタが被っているので、さらに一段階面白い真性引き籠もりならではのエントリーを期待しちゃったり。
(誤解されないように断っておくと「既出ネタ」だからダメだとは思いません。誰かが通った道ならそれをリンク引用すれば住む話に時間をかけないのも効率的だとおせっかいにも思っただけです)
commented by otsune posted at 2005/07/01 17:59
平和及第。
世の中には、既出が容認される世界と、既出が容認されない世界が存在する。
人で言うならば、「既出の話題だろうが平気で書く」という人間と、「既出の話題は書かないようにする」という人間がいのである。その境目はどこにあるのか。
既出が許されないもの、それはデータである。既出データは「既出である」というその1点によってデータとしての価値が認められない。逆に、既出が許 されるものとは何か。それは、人である。人とはそもそも既出である。誰もが似通った器官と似通った感情を持つ、在り来たりの陳腐な存在である。真にオリジ ナリティのあるデータというのは存在するが、真のオリジナリティを持つ人間などいない。
データでは「既出ではないこと」が価値である。オリジナリティこそが価値である。しかし人間では逆に「既出であること」即ち凡庸さこそが価値であ る。人間が評価されるのは「他の人間にも理解が可能である」という既出さという普遍性によってであり、仮に真に既出ではない人間が存在したならば、何を やっても全く評価されないであろう。
「既出でも構わないじゃないか!」という話がなされる際の論拠として、「既出の話でも続けていればなんか新しい発見があるかもしれない」というものが上げられる。
けれども、その論には僕は乗らない。(乗るという人を否定する事まではしないが。)
何故ならば、新しい発見、新しいデータなどというものは存在しないに等しいほどに存在しないものである。馬鹿であっても天才であっても、全知全能なる神であったとしても、有り触れた事有り触れた話有り触れた物事の有り触れたものしか作り上げられぬのである。
つまりは、データをどう処理するかという事で全ては決まる。
2005年の夏の終わりに黄熱病の病原体を顕微鏡で眺めたならば、その行為は人としては価値がある。けれども、データとしてはまったくの無価値であ る。つまり、同じ内容でも「データ」という枠組みで処理するか、「人間」という枠組みで処理するのかにより、その価値の有無は綺麗に別れる。
即ち、「既出である」という言葉を吐く人間というのは、それを「データである」と認識し、データであると判定しているのである。言わない人間はそれを「人間である」と認識し、人間であると判定しているのである。
なるほど、otsuneは「インターネットとはデータの集合体である」としているのである。
逆に僕はそれを人間の集合体であるとしている。
普通ならば、それで終わる話だ。
つまり、otsuneと僕は立場価値観生き方が違う、というだけで終わる話である。
けれども、これはそういう話ではない。
残念な事にこれでは終わらないのだ。
otsuneはvoidのレバーの腐ったような糞ブログを2つも3つも書き続けている。つまり、otsuneは無価値なデータを無価値であるとする 一方で無価値なデータを延々と汚水の如く垂れ流し続け、バナナにもおやつにもならないような糞コメントを方々に残し続けているのだ。
何故そのような芸当が可能なのか。
答えは簡単である。
otsuneにとって、インターネットとはデータである。
対し、otsuneにとってotsuneとは人間なのである。
完璧なまでのアウレリアスタンダードである。
びっくりするほどローマニアだ。
結局の所、インターネットとはそういう場所である。
otsuneのような、「自分は人間、他はデータ」という、一方的な消費被消費の関係であると認識した物達によって成り立っているのである。その otsune的壁、即ち「人間とデータの壁」の場所は1人1人にそれぞれ異なる。「会ったことがある人-会ったことが無い人」という場所に壁を作る人間も いれば、「身内-外野」あるいは「味方-敵」といったようにより解りやすい人、あるいは極限的に「俺-その他大勢」というostuneな場所にそれを置く 人もいるのである。
即ち、otsuneな目で見たインターネットとは、インターネットnoob初心者が陥りがちな「インターネットは俺だけ人間俺のもの!」という、極 限の間抜け的なインターネットである。言うならばotsuneとは「教えてください!初心者です!」人間である。つまりotsuneのPCのスペックはパ ナソニックである。
事は単純な話で、人が人として扱われるには人を人として扱わねばならない。
データは人をデータとして扱う。人をデータとして扱うと、人はデータとして扱われる。人を人として扱わない限り人は人でいられないのである。
その当たり前の事を理解出来ない人間が増殖中のインターネットという場所は、実にウエスタンSF的な「人影の消えた町」である。人が人として扱われず、データとしてただ西から左へ消費されて行く、極めてバイオハザードな、俺とゾンビの物語である。
その人間不在のインターネットの現況の元凶こそがotsuneである。
ジャギの分際でケンシロウを名乗るジャギであり、霊長類ヒト科最低のヌートリアである。即ちotsuneとは太陽系の恥部であり、人類史の汚点である。つ まりotsuneとは鬼であり悪魔でありペドロリ幼児性愛者である。言うならばクレオパトラの豚っ鼻だ。人と人とが啀み合い、今日も争いが絶えないのは、 otsuneが存在しているからであり、otsuneとはこれから始まる物言う歩く黒歴史だ。つまりの所インターネットとは、otsuneが死ぬか人間が 死に絶えるかの強制自動二択である。
正しくotsuneとは、癌細胞 OF THE 癌細胞である。
結局の所、真性引き篭もりhankakueisuuが人間で無い人間であるのと同じように、人間ではないotsuneもまた人間である。おい。otsune。おい。おい。otsune。どうせだから同じ人間ではない人間同士で愛し合おうぜ。
師走にアイスクリームで出来たデコレートケーキを無理して買って、「なんでこんな寒い時に寒いもん買うのよ!」みたいな険悪ムードに陥って、冷凍庫の奥底へと愛しさ丸ごと放り込もうぜ。
それを夏の終わりに取り出して「あー、忘れてた!暑い時に丁度いいわ〜」みたいな和気藹々でがっついたものの、すっかり酸化して味の鈍ったケーキの前に深い沈黙を押し黙ろうぜ。
「アイスケーキはまずかったか・・・」などと二人して反省し、普通のケーキをケーキ屋に買いに行き、モンブランを買おうとしたものの店員にいちごのモンブランを薦められて「あ、じゃあ」みたいに笑顔に負けて、いちごのモンブランを2つ買ってとぼとぼと帰ろうぜ。
帰宅中に高校時代の恩師に出会い「あー、あの時は」みたいな空気で無理矢理に、「つまらないものですが」とか言いながらいちごのモンブランを一個あげてしまい、帰宅しては「なんでいちごのモンブランあげてしまうのよ!」みたいな空気に喧喧しようぜ。
「とりあえず仲直り」とかいいながらいちごのモンブランを半分に切ろうとして、真っ二つにならなかったイチゴがその圧力でパイ生地を粉々に押しつぶしモンブラン的なものを台無しにしてしまった光景を見てひとしきり無力感に笑おうぜ。
人殺しが人殺しに人殺される新作映画を自転車に乗って見に行って、悪い気分で映画館から抜け出したなら、自転車のカゴには飲み捨てられたペットボトル。それを交互に手にとって、キャッキャ言いながら押しつけ合って笑おうぜ。
そのキャッキャに飽きたどちらかが、隣にあった赤の他人の自転車のカゴにペットボトルを投げ込むに至り「それは駄目よ」と即ゲレし、猛烈に倫理を罵しり合おうぜ。
やがては愛し合う事に飽き疲れ、「もうこんな関係は終わりにしよう」という点で意見の一致を見、「私達って気が合うわね」みたいな変な共有感を味わおうぜ。
別れ際に「俺とブログとどっちが大事なんだ!」みたいな物凄く無意味な口角飛ばし合い、「バーカ、ブログに決まってんだろ・・・」と2人して醒めた 態度を思いながらも、最後にもう一度だけ肉とミートで繋がりたいという滑り輝く欲望に負け、「君の方が大事に決まってるじゃないか!」と、笑えない東京の お笑いコンビみたいに声を揃えてハモろうぜ。
そうして、全部有耶無耶のままで愛し合おうぜ。
なあ、otsune。お前とならうまくやれそうな気がするんだ。
愛し合おうぜ。愛し合おうぜ。愛し合おうぜ。な。愛してるぜ。
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおつねえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!
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