2005年7月15日金曜日

GoogleMAPに光を奪われたwikipediaのMAP。



wikipediaが好きだ。
何がいいって、「誰の役にも立たないかもしれないものを名もない誰かが作ってる」という、儚い徒労の虚しさが好きだ。彼らを突き動かしているのは「言葉では言い表せない希望」のような情熱であり、その人間の努力の粒が、インターネットを通じてひしひしと伝わってくる様が好きだ。結局の所、人の熱が好きだ。




対して、GoogleMAPは大嫌いだ。
まったく好かない見る気もしない。

GoogleMAPは人間の仕業ではない。
GoogleMAPとは、技術の結晶である。
そこに感じられる無機質さが嫌いだ。




wikipedia(english)には、アメリカのいろんな町や村の、いろんな地図がupされている。
古地図のようなものもあれば、地下鉄の路線図みたいなのもある。
空中写真みたいなものあれば、丘の上から撮ったようなのもある。
バスの路系図みたいなのとか、大きな町の発展前の、荒野ばかりの白地図もある。
いろんな地図やいろんな場所の、いろんな写真がUPされている。

それらをUPした人はそれぞれ「この地図はスキャンしてUPして大丈夫なのか」などと悩みながら手元の地図をスキャナーに入れ、JPEGに加工して1枚1枚手弁当でUPしたわけである。

その長い長い、ひたすら地道な作業の積み重ねが、GoogleMAPというテクノロジー的宇宙瞰図に一瞬にして圧殺された。もう誰もWikipediaにスキャナでUPされた手弁当のMAPを、MAP目当てに見たりはしない。町の解説の付録として、お新香として添え物として、そういう価値になってしまった小さなおまけ。彼らの「全米の村々のMAPをUPる」という日進月歩の情熱は、徒労に終わった。潰された。




「誰かの役に立つ無報酬のスキャン」が「誰かの役に立つ巨大企業」に零封された。
それが、悲しい。





結局の所、体力や情熱は歩くために使わずに、新幹線を作る為に使え、って事なんだろう。無駄な努力をしない事、それが大事って事なのだろう。
最短距離を導いて、道筋通りに走れって事だ。







けれども、それでも、僕はまだ、WikipediaにUPされたMAPが好きだ。

好きで好きで、たまらない。そこには週末をスキャンに過ごすお気楽外人がいて、それぞれが胸にくだらない情熱を持って「WIKIPEDIA MAP HAHAHAHA!!」とやっている。あるいは、やっていたのである。それを思って眺めるのが好きだ。


GoogleMAPのように動かしたり、拡大したりなんてオシャレな事は出来ないけれど、それでも僕はWikipediaMAPを見て、遊ぶ。楽しむ。幸せになる。




「GoogleMAPで週末の夜を楽しむ」という、未来的な技術享受の刺激時間な週末も、それはそれで素晴らしいのだろうと思う。



けれども、どこかの名も無き外人が、1枚1枚スキャンした、くだらないくらいに色褪せた、安物の古びた静的地図を眺めて過ごす週末の夜、ってのもそれなりに楽しいと思う。異国の町の片隅の、あんまり役に立たなかった情熱に思いをはせながら、JAVA scriptすら無い原始的なJPEG地図を眺めて過ごす、そんな週末の夜の過ごし方も、有りだと思う。








http://en.wikipedia.org/wiki/Philadelphia
例えばあの、アリゾナの、フィラデルフィアの、地図みたいに。