2005年7月5日火曜日

悪いトラックバックなど無い。



悪いトラックバックなど無い。
悪い人間がいるだけである。








トラックバックとは道具である。それで魚を捌こうと、鉛筆を削ろうと、エッジに投げさせようとそれはそれ、人それぞれの使い方である。この使い方は悪い使い方、などと言えるものではない。









「悪い言及リンク無しのトラックバック」とは何か。
それは、言及リンクの有無如何に関わらず悪いトラックバックである。
言及リンクの有無如何に関わらず、多くのブロガーが不愉快だと感じるトラックバックである。つまりは、言及リンクの有無はまったく関係が無い。






答えは簡単だ。
いや、単純だ。

アフィリバック、アドリバックである。
あるいはアクセスカウンターバックである。

大多数のブロガーはアフィリバックやアドリバックを被った際に、自分のブログのエントリーが他人の私利私欲に利用されたと感じ、極めて嫉妬的な不快感、不愉快さを感じる。アフィリバックやアドリバックとは、不愉快なものなのである。。

そして、いくらかのブロガーはアフィリバックやアドリバックを被った経験がある。彼らが目にし見て、被り体験した現金ブログからのアドリバックへの不快感が「言及リンク無しのトラックバックは駄目」とする俺ルールの共有の礎となっている。




それを「悪い」と思うのならば、「悪い」と言うべきである。
それを「いけない」と思うのならば、「いけない」と言うべきである。


ただし、対象を間違えてはいけない。
それが「言及リンク無しのトラックバック」に対する悪いいけないなのか、「アフィリバック」に対する悪いいけないなのかは、区別し分けておくべきである。何故ならば、言及リンク無しのトラックバックとアフィリバックとは、似ざる非なるもの、まったくの別ものだからである。











結論から言うと、「良い言及リンク無しのトラックバック」を体験した事が無いブロガーはnoobである。noobはnoobらしく黙っておればよいのである、偉そうに善し悪しを決めようなどとは愚の滑稽である。





良い言及リンク無しのトラックバックとは、何であるか。
「そんなもの存在しない!」と言いたくなる人も大勢いるであろう。

しかし、それは違う。
良い言及リンク無しのトラックバックは確かに存在している。
あなた方の知らない所で、良い言及リンク無しのトラックバックは有るのである。





「言及リンク無しのトラックバック=悪い」との認識を持つブロガーは、エントリーブロガーである。トラックバックというものを、エントリーとエントリーを繋ぎ合わせる道具として捕らえているのである。

「言及リンク無しのトラックバック≠悪い」との認識を持つブロガーは、ブロガーブロガーである。トラックバックというものを、ブログとブログを繋ぎ合わせる道具として捕らえているのである。






はじめに戻るが、トラックバックとは相手方のウェブサイトに、自分のウェブサイトへのリンクを作り上げる仕組みであり、そうする為の道具である。

「相手のエントリーに自エントリーへのリンクを作り上げる為の道具」と考えている人は、言及リンク有り推奨派であろう。エントリー同士の密度、関連性を重視し、その色が濃くない「良い言及リンク無しのトラックバック」を想像出来ないであろう。







しかし、所変わればまったく違う。

「相手のブログに自エントリーへのリンクを作り上げる為の道具」と捕えている人にとって、言及リンクの有無は重要ではない。もちろん、両者ともアフィリバックやアドリバックに対しては悪いいけないとしているだろう。しかし、言及リンクの有無問題とアフィリバック問題はまったくの別物なのである。





良い言及リンク無しのトラックバックを貰ったことが無いブロガーは、エントリーに対するトラックバックしかもらえない部類のブロガーであるか、人密度が薄いブログを運営している、あるいは人密度が薄いブログを思想として選択しているのだろう。

「このブロガーに自分のエントリーをなんとしてでも読ませたい!」と思ってくれる人がいないのだ。まったく哀れだ。「このブロガーに自分のエントリーを読んで貰いたい!」という純然たる感情から行われたトラックバックは、まったくもって愛すべき、言及リンク無しのトラックバックである。












「馬鹿を言うな」
と仰りたい人もあろう。あろうであろう。そういう人達に問う。


仮に最も敬愛するブロガー、あるいは真鍋かをりから言及リンク無しのトラックバックを受けても「言及リンク無しのトラックバックは全て悪い」といった方針を貫き、問答無用のトラックバック削除や、スパマーというレッテル張りを行えるのだろうか?

もしも、恋人がブログを開設した報告記念に「言及リンク無しのトラックバック」をにこやかに寄越してきたら「お前はSUPERMARだ。トラックバックを弁えろ。」と言えるのだろうか?




それにウイと言えるのならば、胸を張って「言及リンク無しのトラックバックは悪いもの」だと主張してよいだろう。ただし、それはあくまでも俺ルールであるということを認識した上で、という条件付きである。俺ルールを自らの運営方針として軸に据え貫く事は素晴らしい事であるが、それをインターネットに押しつけるのはお門違いである。


それ、即ち敬愛するブロガーや愛する人、あるいは憧れの人やブリトニースピアーズから言及リンク無しのトラックバックを受けた際に、「即削除」や、「悪トラ認定」という普段通りの対応が出来ないのならば、その言及リンク無しのトラックバックに対する俺ルールは間違いである。

それは、アフィリバック、あるいはアドリバックに対して制定された俺ルールである。
「言及リンク無しのトラックバック」に文句を言う資格は無い。












気に入らないものを気に入らないという行為は悪いことではない。感情の明文化であり、意志の表記である。人が人たる心の思いであり、それ自体は素晴らしいことである。


ただし、「悪い」とするのか「気に入らない」とするのかに注意を払う必要がある。また、自分が見たことの無いものを存在しないものとして扱うべきではない。

特に悪と定め表記するのであれば、リアルセカイ系な「目にしたものが全て」という論拠に基づく表記を行ってはならない。世界は広く、様々な人間が様々な生き方をしている。見たことの無いものの方が遙かに多いわけであり、それらを想像することが必要である。


見たことが無いものを存在しないとする行為は、ノストラダムスや細木数子を崇めている馬鹿と二分も違わぬものであり、非思考的無思考人間の仕業である。責任も善悪も無き者である。


気に入らないものを攻撃するのは良い。
しかし、無関係の人間を巻き込んで攻撃してはならない。












「優しさ」とは何か。
それは優しさである。
つまり、優しさとは優しさである。



優しさとは、他者を認める行為である。
優しさという概念は多様性を認める時のみに用いられるべき言葉である。多様性を否定し、他者を否定する事は優しさの真逆、「冷たさ」と書き表す事が可能なものである。多様性、つまり他者を否定する為に優しさを持ち出すというのは詐欺師による極めて詐欺師的な行いである。


どこの世界でも馬鹿がやるのは決まってレッテル張りと印象操作だ。スパマーだ優しくないだアフィリバックだとか言っている人間がいるのを見ると、そういう事であると痛感させられる。実に一変調子単調である。















悪いものを世の中から無くすにはどすればよいのか。
答えはシンプル。イズベスト。方法は無い。
悪いものを世の中から無くす方法は無い。
古来より、悪が途絶えた試し無しだ。







例えば、アフィリバックを悪だとしよう。
アドリバックを悪だとしよう。

そうした時に、アフィリバックやアドリバックを根絶するにはどうすればよいのか。
答えはシンプル。イズベスト。方法は無い。
悪いものを世の中から無くす方法は無い。
古来より、悪が途絶えた試し無しだ。






いや、一応はある。

法の制定、罰則の規定、そしてその完全な運用。
悪の拡散を根本的に抑制する方法はそれしか無い。


けれども、それすらも根絶には繋がらない。
つまり、悪い事をやる奴は、悪い事をやる。







「やってはいけないと思うことをやらないという生き方」
それを選んでいる人間にとって、「やってはいけない事」を説くことは確実な効果がある労働であるように思えるだろう。しかし、実体は違う。時として効果無き徒労である。


なぜならば世界には「やってはいけないと思うことをやるという生き方」を選択する人間が大勢いるからである。彼らにとって「やってはいけない」、つまりは善悪を説くことは何の意味も成さない。彼らが動くのは「損得」という単純にして何よりも明快な価値判断である。浮気も不倫も窃盗も、捕まらなければOKだ。




そして、そういう人達、つまりアフィリバックやアドリバックを平然とする輩は常に、他人の迷惑顧みぬ、後者の側の人々である。つまり、アフィリバックやアドリバックを平然とする輩は常に、他人の迷惑顧みぬ、後者の側の人々だという事である。














インターネットは何に基づいているのか。
それは、行きすぎた自由である。

どのような使い方をするのも自由であれば、何をするのも自由である。利用した者が勝ち、という無法秩序が繁栄をもたらし、インターネットを成し遂げているのである。


肖像権や著作権を完全に無視したゴミ共が「俺はファンだから良い」とか「捕まらないから構わない」だとか「問題があったら削除しますのでご連絡下さい」などとやり、俺ルールで私利私欲を貪っている一方で、まともな人間が権利元に有償での利用許可を求めて問い合わせたりと縮こまっている場所である。

無法地帯であるという秩序に基づき成り立っているのである。








1個人としては検索エンジンやはてなブックマークのようなものが人のブログで金儲けをしている事はもちろん、ちゃっかりRSSや2ちゃんねるも当然不愉快である。また、グーグルマップスが我が国の写真を利用している事ですら極めて不快不愉快不倶戴天だ。当たり前の話でアフィリバックやアドリバックへが不快なのはもちろんの事、アマゾンアソシエイトやアフィリエイトの存在自体が不愉快である。

けれども、不愉快さ不快さと善悪とはまったくの別問題である。どこがどう違うのか、などと書くに値する程の問題で無いくらいに別問題である。何も悪くない。寧ろ、善い。














では、法の制定が不可能な不愉快トラックバック問題は解決しないのか?
答えはシンプル。イズベスト。方法は有る。



簡単な話である。
それは技術者の仕事である。



既に「リンク無しのトラックバックは不可能」というレベルは実現している。
そこまでは行けたのだから、その先に進めばよい。


「不愉快なトラックバックは不可能」が実装されればよいのである。
仮に、言及リンク無しのトラックバックが不愉快であるとし、それに対するサービスを提供しようとするならば、「5行以上の言及が無いとトラックバックが通らない」だとか、「800字以上の言及が無いとトラックバックが通らない」といったシステムを作り上げ、ON/OFFの設定と共にそのサービスを提供すれば、アフィリバック問題は部分的に解消されるであろう。
そうやってインターネットを進化させる事こそが技術者の役割である。









道具としてのトラックバックは優れている。
素晴らしい道具である。
インターネット的自由である。



トラックバックとは、削除が可能である。
相手に選択の余地を残している。相手方に俺ルールの使用を許可しているわけであり、インターネットから削除する事が不可能な言及やリンクとは違う、決定的な最大の配慮である。それは素晴らしいことである。


また、トラックバックは時系列を無視出来る。
後から書かれたエントリーに対して、先に書いてあったエントリーからトラックバックを飛ばす事が出来る。これもまた素晴らしいことである。孤独感から共感者や賛同者を探して書かれたエントリーに、20年前に書かれた似た内容のエントリーからトラックバックが来たりすると、多分ある意味では咽び泣くだろう。インターネットは今も尚、到達不可能な程にまで膨張し続けており、時間軸の違う文章同士を結びつける道具としてのトラックバックはその価値を高め、広がりを見せるであろう。当然、それには言及リンクなど無い。


結局の所、不快なトラックバックは無くならず、多様性を増しながら壮絶に増殖し続ける。同様に、愉快なトラックバックも多様性を増し増殖し、発展し続けるだろう。なにせ、インターネットなのだから。









道具は自由に使って良い。
神をぶった切ろうとジャグリングしようと勝手である。


やってはいけないと思う事をやらないという生き方もある。
同時に、やってはいけないと思う事をやるという生き方もある。


優しさとは多様性を認める事を指す。
多様性を認めない事は冷たさである。


見た物だけを全てだと思ってはならない。
リアルセカイ系は愚かにデンジャラスである。


激昂不快、考え思いの表明は素晴らしいことである。
ただし、何に対して激昂不快を感じているのかを間違えてはならない。


悪いトラックバックなど無い。
悪いと思う人間がいるだけである。


善かれと思ってやった事が悪いと思われる事もある。基準は1人1人違う。
悪いと思われたくなければ時と場合と人を見て、行いを選ぶべきである。