2005年7月1日金曜日

言及リンク有りのトラックバックの何がいけないか。



ブログのエントリーとエントリーの間には、3つの関わり合い方がある。
「言及」「リンク」「トラックバック」である。

相手ブログへのリンクを張ると、当然であるが相手側にアクセスが流れる。
トラックバックを撃つと、相手側から自エントリーへアクセスが流れる。

そして、重要なのは、アクセスとは暴力であるという事である。







世に蔓延るアフィり乞食らにとって、アクセスとは諸手のメリットである。
けれども、全てのブロガーがそのような思想を持っているわけではない。


自らが呼び込んだ常連読者にエントリーを読んで貰いたいと考え、自分の思うこと考えることを書き綴っているブロガーや、ブログ読者ではなくて馴れ合い読者と馴れ合いたいと考えているような人間も大勢いるのである。そのような人達にとって、見ず知らずの読者が「リンク」を通じて一時的に大量に流れ込むことは、ストレスそのものであり、デメリットに他ならない。

10/dayアクセスのブログに100/hourアクセスが流れ込んだ時、その心理的な負担により、ブロガーはブログを止め、mixiに引き篭もったり、更新頻度を減らしたりといった悪い結果をもたらす可能性がある。


様々なタイプや生き方の人間同士が残酷に機械的に結びつけられてしまう、誰もが加害者と成りうるインターネット上において、出来る限り加害者になりたくないと思うのならば、「言及リンク無しのトラックバック」という交流形式が最も相応しい。何故ならばそれが最も人に優しく、距離を置いたままで相手側にエントリーを飛ばす方法だからである。








事はアクセスカウンタだけの問題ではない。

ブログには、エントリー毎にコメント欄というBBSがデフォルトで設置されている。
リンクを張ることにより、そのBBSに言及リンクを行った当該エントリーしか読まない(あるいは、それすらもまともに読んでいない)ような頭の湧いた書き捨てコメンテーターが流れ込み、暴れ荒らす可能性がある。






コメント欄で暴虐非道を尽くす荒らしというものは、どのウェブサイトにも、一定の割合で潜んでいるのである。それがインターネットである。


また、いわゆる一般的には荒らしではない人間でさえ、軽はずみなコメントや、空気を読み切れなかったコメント、文脈や真意を理解しないコメントや相手側の趣向とは違う行動により、管理人や住人を傷つけてしまう可能性がある。誰もが、所変われば荒らし暴徒と成り得るのである。


「うちの読者は全員いい人ばかりだから!」というブログでさえも、もし言及先のブログ管理人の心を考えるならば、あえてリンクを張らない、あえてアクセスを流さないという、相手方への気遣い気配り、無用な心労に対する予防措置も、選択肢としては十二分に存在しうるであろう。










さらに、読者はリンク先を読まない。

手元のデータとかによると、言及リンクで流れるのは1/5程度のアクセス数であり、リンクのみで流れるのは、1/10かそれ以下という数字である。また、そのうちのどれくらいの人が文章を丁寧に読むのか、という事になると絶望的な数字になるだろう。大多数の読者はリンク先を読まないのである。

ありとあらゆる各ブログの各エントリーが、読者というものにとっては最終ソースとなり、信頼されてしまうのである。そんな時代において「言及」という形で相手側のエントリーを紹介するという事は、もしもその言及が誤読、あるいは誤解に基づくものであった場合、あるいは文脈や流れというもの、背後関係を捉えきれていなかったものであった場合、誤読誤解が最終ソースとしてインターネッターの心の中に残り続ける、取り返しのつかぬ事態を生むのである。


もちろん、インターネットとはそういうものである。やられて当然されて当然、ルールもマナーもモラルも全てが形骸化した世界である。けれども、その一行に加わりやるのか、あるいは自制しやらぬのか、という点は1人1人が決めることである。








また、インターネットには色々な立場の人間が存在する。
ある立場の人間にとって「そのエントリーは間違っている」と声を荒げたくなる文章は、ある立場の人間にとっては「一理有るもの、正しいもの」となるのである。

その立場の違い、多様性というものを容認するのか、容認しないかの違いである。

言及リンク有りのトラックバックとは、逃げ場を残さぬ責めであり、
言及リンク無しのトラックバックとは、多様性を容認する緩い交流である。

言うならば、逃げ場の無い追いつめて論述バトル化するのか、「こういう考え方もありますよ」と、インターネットの緩い交流、即ちトラックバックというものを利用して相手方に対論の存在を知らせるのかの2択である。



例えば、「駅のプラットホームでの喫煙くらい構わないじゃないか!」とブログに書いている人間を見つけて、言及リンク有りのトラックバックで「こんな事言っている奴を見つけた!この人は全面的に間違っている!最低!最悪!」とやるのか、

「私はこういう経験から、駅での喫煙は禁止した方がいいと考えています。」という、言及もリンクも無い、緩い関連性のあるエントリーをトラックバックで飛ばし、緩やかな思考の交流を行うのか、という違いである。



僕は迷わず後者の、言及無しリンク無しのトラックバックという、緩い干渉、緩い歩みのコミニケーションを支持する。何故ならば、言及無しリンク無しというトラックバックは、「削除すれば痕跡は残らない」という、最も人に優しいオブジェクションであり、言及有りリンク有りが検索エンジンに永久に痕跡を刻み込むのに対して、遙かに人間的であると考えるからである。

「嫌なら消せる」
それは、言及無しリンク無しのトラックバックが誇る最も優れたポイントである。

















「かつて、ウェブサイト間には紳士協定のようなものが存在していた。」

「リンクは許可制」だとか、「趣向をご理解いただけないサイトからのリンクは禁止」だとか、「俺が気に入らないサイトからのリンクは禁止」、「MIDI聴いたら必ず感想書いて!」といった紳士協定的なマイナールールが存在しており、それらはある程度まで、緩やかながら守られていた。

そのような、正当性を持たない日記サイト的、あるいはテキストサイト的なローカルルール、紳士協定はブログというコメント付きのグローバルに飲み込まれ、ヴァーリトゥードな時代を迎えた。



今やブログのインターネットは、繋がり過剰という事態を迎えているのである。


かつて「被リンクが存在するサイトのみ取り上げる」といったような方針を持つ、個人ニュースサイトがあったりもした。けれどもそういう流れは完全に断たれ、壁無きアクセスが暴徒と化して流れ込む時代である。

エロゲーメーカーの新着OPムービーを毎日毎日書き連ねてアフィってるようなサイトから容赦なく暴徒が襲い来る時代である。

もちろん、それ自体は素晴らしい事だ。1個人としては、馬鹿が暴れようと暴徒が流れ込もうとお笑い誤読が繰り返されようと、そういう光景はある部分では大好きだ。血みどろ最高馬鹿最高である。




けれども、僕のように無神経さを容認する書き手はそうは多くはない。
1人のブロガーを叩きのめすには心ない1コメントで十分であるし、1人のブロガーから更新意欲を奪い去るには、普段の5倍の一見アクセスで十分なのである。ブログを書くのは、タフで非人道的で横柄なハイネッターばかりではないのである。



加害者となる可能性を持つ「言及リンク」というものを行うのか、行わないのかという2択である。その選択肢は残されるべきであるし、容認されて当然の紳士的行為である。

そういう意味では、はてなダイアリーの「リンクが無ければトラックバックが通らない」という仕様は、市民がスパマーの犠牲となった1つの例であり、繊細で弱い関わり合いをシステムの側から全否定しているものである。







リンクが相手側へのアクセス依頼、荒らし依頼であるのに対して、トラックバックとは自ブログへのアクセス依頼、荒らし依頼である。言及リンクという、暴力可能性を行使せずに、トラックバックのみを行うという行為は、最も気配りの効いた、最もフェアな他ブログの他エントリーへの干渉である。

「言及無し、リンク無し、トラックバック有り」
とは、最も正々堂々紳士的、緩い係わり行為である。





「言及無し、リンク無し、トラックバック有り」の抱える卑怯さとしては、「間違った事が書かれていてもそのブログの読者は気がつかない」というものがある。
けれども、その間違いが致命的であればトラックバックを通じて反論者が流れ込み、そのブログの読者にも判る形で表面化したり、あるいはカウンター的なトラックバックで反論を受けたりするであろう。言うならば、アクセス依頼、荒らし依頼としてのトラックバックが機能して、そのデメリットを抱擁するだろう。





アクセスとは暴力である。
言及とはレッテル張りある。
リンクとは荒らし依頼である。

結局の所、そういう事である。













「言及有り、リンク有り、トラックバック有り」という暴力の実例がある。

http://blog.goo.ne.jp/wakainkyo/e/f867e83a2bf20cf35f2b6d216c321595
上記のエントリーでは言及有り、リンク有り、トラックバック有りによる問題点の指摘が行われているが、まったくもってただの暴れ馬鹿である。

これは正しく、有り有り有りの最も悪いパターンである。
何故ならば、相手に逃げ場を与えていないからである。


ここで若隠居が行っている言及有りリンク有りのトラックバックは、相手側にとって逃げ場の無い、冷血非道な干渉である。

世の中には色々な人がいるわけである。
若気の至りで失言や放言をして反省したりする人もいれば、デマを流して差別を広める事くらいしか生き甲斐の無いような人もいるわけである。それらインターネットにちりばめられた軽はずみなエントリーに対して、まともに論考の出来る弁説の立つ人間が「言及有り、リンク有り、トラックバック有り」という形で全否定し、大量のアクセスを流し込む行為が、末端のブロガーにとってどれだけの負担になるのかという事をまったく理解できていない。仮に、ウェブ上に存在する全てに対してそれを行っているならばその振る舞いも幾らかは理解出来る。しかしこれがやっている事は、自分の目についた雑魚を殺してカタルシスを得ているというだけの話であり、極めて悪趣味な話である。

もしも「人は論破されれば考え方を変える」などという認識を持っているとしたら、それこそ救いようがない。人が考え方を変えるのは思考の重ねの果てであり、有り有り有りで逃げ場無く叩きのめせば良いというものではない。やるならやるでショッピングニュース速報とか潰すくらいの事はやれよ。だいたいからして横線入れてご満悦ぶってるような変態は変態らしく大人しく女子中学生で公開オナニーでもしてろ。それくらいがお似合いだろ。


敵の城を囲むのならば、東西南と囲んだ上で北口を開けておくのが礼節である。それが言及無しリンク無しのトラックバックで成し遂げる事が出来るのならば、そうするべきである。










そもそも、言及とは誤読であり、言及リンクとは誤読リンクである。
読んだ人間が勝手に好き放題にコメント添えて、1から全部書き直し、インターネットに再放流する行為である。インターネットとはそういうものであるからして、「やられて当然」の事ではあるが「やるのが当たり前」の話ではない。

固有名詞を出した言及を行うのか、リンクを張るのかといった事柄は、各自が考え内容と相手を見、熟考を経て決めるべきである。








エントリーとエントリーの間の3つの関係。
「リンク」「言及」「トラックバック」は、1人1人が1つ1つのエントリー毎に、それぞれON/OFFの自由を所持するものである。そのどれをONにし、どれをOFFにしようと、何も悪いことでは無いし、否定されるような事ではないのである。


当ブログでも「リンク無し、言及無し、トラックバック無し、相手無し」という究極に緩い係わり方から、「リンク有り、言及有り、トラックバック無し」、あるいは全て有りといったものまで、色々なやり方をやってきたわけであり、今後も時と場合と相手により、使い分けて行くつもりである。















というか「言及リンクのないTrackBackの何がいけないのか」ってそれはただ、他人が儲けている事に嫉妬したアドりアフィってるアクセス乞食が、屁理屈こね回して間抜け面晒してるだけじゃねえか。

現金乞食の分際で多様性を全否定して傲慢な俺ルールをインターネットに押しつけてんじゃねえよ。脳の随まで腐りきった人間が偉そうな物言とはいい時代だな。

挙げ句の果てには言及無しリンク無しのトラックバックをする人間はスパマーだってレッテル張りか。アフィり乞食はアフィり乞食で固まってアフィり乞食の教祖と化してアフィり乞食ワールドで王様ぶってろ。インターネットに出てくんな。迷惑だから。

ゴミはゴミらしく一生ゴミ箱アフィってろ。