働きアリは、なぜ働きアリなのだろう。
それは、働くアリだからだ。
では、である。
働きアリは、なぜ働くのだろうか。
それは、働きアリだから・・・ってのは山が無いから山無し県。
女王アリは、雌のアリだ。
たまごを産んで、子孫を残す。
女王アリの行動は、我々人間にとっても理解しやすい行動である。
働きアリは、雌のアリだ。
たまごを産まない。子孫を残さない。
どうして身を粉にして働くのだろう。
どうして?
休もうよ。
疲れるだろうに。
なんでだろ。
わかんない。
僕の脳みそじゃわかんない。
他の話をしよう。まったく別の話を。
蜂蜜。
ミツバチ。
はるちるがるとるぶるんる。
女王蜂は、雌の蜂だ。
たまごを産んで、子孫を残す。
女王蜂の行動は、我々人間にとっても理解しやすい行動である。
働き蜂は、雌の蜂だ。
たまごを産まない。子孫を残さない。
どうして身を粉にして働くのだろう。
それどころか、働き蜂は巣に危害をもたらす者を針で刺して攻撃する。
ミツバチの針には釣り針のようなカエシがついており、刺した働き蜂はそこで死ぬ。
死ぬなよ!
どうして!
どうしてなんだ!
どうして死ぬんだ!
なんでだろ・・・。
・・・わかんない。
僕の脳みそじゃわかんない。
他の話をしよう。まったく別の話を。
内田樹がとんまな文章をウェブに上げていた。
賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。
というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。
動物の世界に「とりあえず必要」とされる以上の財貨やサービスの創出に「義務感」や「達成感」を感じる種は存在しない(たぶん)。
「糸の出がいいから」という理由で自分用以外の巣を張る蜘蛛や、「歯の切れがいい」からという理由で隣の一家のためにダムを作ってあげるビーバーを私たちは想像することができない。
そのような「過剰な労働」は動物の本能にはビルトインされていない。
まったくもってとんとんとんまだ。
内田樹の最大の間違いは、人間という生き物を特別視している点にある。
おそらく、特別視したいのだろう。彼は人間である事を誇りにしているのだと思う。
とりあえず、
>賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
賃金と労働が均衡することが無いのは当然であり、その通りである。
以後僕が使用する「過剰な労働」という言葉は、経営者が労働者の労働成果、つまりは利益の一部を抜き取る事を指さない。御留意願いたい。
では、である。
「糸の出がいいから」という理由で自分用以外の巣を張る蜘蛛は確かにいない。
「歯の切れがいい」からという理由で隣の一家のためにダムを作ってあげるビーバーも確かにいない。内田樹を含めた"私たち"はそれを想像することができない。
しかし、である。
「女王アリの為に過剰な労働をする働きアリ」や、
「巣の為に身を挺して外敵を攻撃する働き蜂」。
「自身の子では無い子象を囲って守る大人の象」や、
「雄ライオンの為に狩りを行う雌ライオン」を想像するのは容易い。
というか、実際にいる。
前者と後者の違いは何か。
それは、所属するグループの存在である。
ジョロウグモは所属するグループが無いから、他者の為に巣をはらない。
しかし、所属するグループがあるアリや蜂、象やライオンは違う。
働きアリと呼ばれる生殖機能を持たない雌のアリは所属するグループの為に働く。
働き蜂と呼ばれる雌の蜂は所属するグループの為に働き、刺し死ぬ。
大人の象は所属するグループの子象を守るし、雌ライオンは所属するグループの雄の為に狩りをする。
そして、ビーバーは将来所属するグループの為に勤勉に働き、巣を作る。
「過剰な労働」は動物の本能にビルトインされているのである。
人間と他の生物種の違いは、生き残る為に選択した武器の違いである。
人間の武器は「異常に巨大化した脳」である。蝙蝠だと「夜目と翼」かと思うし、鯨は「海と巨体」でキリギリスだと「強いアゴ」だろうか。異常に巨大化した脳以外の要素を人間の優位性の一要素とするのは「自分の所属する種の優位性を何としてでも主張したい」という動機からの思考停止でしかない。その物差しは異種間ではなく人同士にのみ使用されるべきである。
話を、戻す。
過剰に働く理由。
それは、所属するグループの為である。働きアリが運ぶのも、働き蜂が刺し死ぬのも、プレイリードッグが泣き喚くのも所属するグループの為である。
では、人間が働く理由はどうであろうか。
同じく、所属するグループに貢献する為である。
人間は「とりあえず必要」である以上のものを作り出すことによって他の霊長類と分岐した。
どうして「とりあえず必要」である以上のものを作る気になったのか。
たぶん「とりあえず必要」じゃないものは「誰かにあげる」以外に使い道がないからである。
人類の始祖たちは作りすぎたものを「誰か」にあげてみた。
そしたら「気分がよかった」のである。
あるいは、「気分がよい」ので、とりあえず必要な以上にものを作ってみたのかもしれない。
などという事実は存在しない。
人間が「とりあえず必要」である以上の労働を行うのは、それが所属するグループの利益になるからである。働きアリが働くのと同じ理由であり、他の霊長類どころか他の生物種との区別に使える基準とはなり得ない。
人類の始祖たちは「誰か」を所属するグループであると認識し、その「誰か」に必要な物をあげる事が所属するグループの利益になると判断したから「グループの為の過剰な労働」を行ったのである。
「所属するグループ」とは何か。
それは、基本的には血縁者である。
ビーバーが巣を作るのは、配偶者と子供の為であるし、日本の多くの労働者が身を粉にして働き続ける理由も配偶者と子供の為であろう。
しかし、過剰な労働の受け入れ先となる所属するグループとは配偶者であるとは限らない。
下請け会社のプログラマーがデスマーチを奏でるのは「職場」という自分が所属すると認識したグループの為であるし、マクドナルドのアルバイトが過剰な労働をするのは「○○店」という自分が所属するグループの為である。また、オープンソースコミニティの開発者が過剰な労働をするのは「オープンソース」という自分が所属すると認識したグループの為である。欲しがりません勝つまでも、巨大なグループの認識である。
会社を「グループである」と認識させる事は企業にとっても力となる。
古の日本においては「社愛精神」や「一億総中流」という言葉で現されたグループの定義は高度経済成長の原動力となったし、現代においてはGoogle社やAmazon社が自社を「所属するグループ」であると認識させて労働者の潜在力と労働意欲を十二分に引き出すことに成功している。株式会社任天堂の「社長の喜ぶ顔が見たい」という宮本茂な快進撃も、任天堂という企業自体を「所属するグループ」と認識させる事に成功させる事によって成し遂げられたものである。
NEETではない多くの労働者にとって、労働動機は1つではない。
「人類」「宗教」「国」「民族」「両親」「兄弟」「配偶者」「養育者」。
「会社」「社長」「職場」「上司」「同期」「部下」。
「友達」「幼なじみ」「同好の士」。
といったように、一般の労働者は多種多様なグループに所属している。
それら1つ1つが、労働動機として機能しているのが健全な労働者である。
NEETと労働者との違い。
それは、「所属するグループ」を認識できているか認識出来ていないかの違いである。
NEETとは認識不全という疾患である。
認識疾患を抱えていない普通の人間であれば、
「会社というグループに貢献する為に働こう!」あるいは、
「会社は腐ってるけど直属の上司や同僚の為に働こう!」となる。
「会社も職場も駄目だけど、育ててくれた両親というグループに貢献する為に」
「会社も職場も親兄弟も駄目だけれど、配偶者と子供というグループに貢献する為」
と、自身の所属するグループを見つけ、それに貢献しようと労働を行う。
「モー娘。のコンサートに通い続ける為に」だとか、「デポルティーボラコルーニャを応援し続ける為に」といったものもある。これらも少し偏ってはいるが、適切な貢献対象グループの認識である。
貢献目標グループの拡大と認識が適切な形で生じた結果が労働者である。
その貢献目標グループを少しけったいな方向で設定した人間が、地球市民になったり、共産革命を目指したり、マルチ商法を良い事だと触れ回ったりするのである。
そして、貢献目標グループの拡大と認識に失敗したのがNEETである。
では、NEETがNEETに至るまでを見てみよう。
NEETは、両親を「価値のあるグループ」と認識出来なかった事から始まる。
一般人が疑問を抱かずに「価値のあるグループ」であると認識する両親というグループを何かの要因によって「無価値なグループ」あるいは、「低価値なグループ」と認識してしまうというのが、NEETの始めの一歩である。
次に、配偶者である。
日本の労働者の多くは、配偶者と子供という「価値あるグループ」の為に労働を行う。
NEETには配偶者はいないので、配偶者はNEETの労働動機になり得ない。
しかし、配偶者のいない労働者が「将来の配偶者の存在」を価値のあるグループとして認識しているのに対して、NEETは将来の配偶者をリアルに想像出来ない境遇にある。
「将来いいお嫁さんもらって幸せな家庭を築きたいな~」
という「未知のグループ」を想像し、希望を抱ける人間は両親というグループを評価していなくても働く事が可能である。ビーバーの労働はこれである。
それに対し、多くのNEETが抱く「将来・・・巨乳で美人で・・・由紀恵たん・・・」というのは、性欲表現でしかない。NEETは将来の配偶者の存在を、「グループ」であると認識できていないのである。
一言で言うと、NEETとは孤独である。
愛し得るものが身近にはいないのである。
NEETの多くは歩んできた人生の中で、校友、級友、先輩、後輩、サークル仲間、友達、といった形式的な「グループ」に所属する事を繰り返す中で、自身の所属するグループは愛すべき価値の見出せない軽薄で薄っぺらいものであると認識し、それによって将来無数に待つであろうグループも全てが貢献に値しないものだと誤認識してしまったのである。
しかし、NEETが所属するグループを持たないというわけではない。
NEETが価値あるグループであると認識するのは、イチロー鈴木、うすた京介、PRIDE GP、ギターウルフ、ナショナリズム、NINTENDO、堀江由衣といったような、身近ではない貢献方法の乏しいグループである。
NEETは貢献不可能なグループを価値あるグループであると認識し、自身が貢献可能な手の届く範囲にあるグループを全て「無価値なグループ」であると認識してしまう事により生じる。
内田樹の「NEETとは、より合理的に思考する人たち」という定義は間違いである。
NEETと労働者の思考方法に大きな差異は無い。
労働者は「貢献価値の見いだせるグループに所属している」人たちであり、
NEETは「貢献価値の見いだせるグループに所属していない」人たちである。
付け加えるならば、
「将来貢献価値の見いだせるグループに所属している自分を想像出来る」
「将来貢献価値の見いだせるグループに所属している自分を想像出来ない」
という、自己評価の違いである。それ以前の問題としてニートは自身の人生を貢献価値の無いグループであると定義している場合もある。
話を少し変える。
内田樹の投稿の序文である。
NEETについてのゼミ発表のあとにレポートを書いてもらった。
15名のゼミ生のほとんど全員が実にきっぱりと「仕事というのは賃金を得るためのものではなく、仕事を通じて他者からの社会的承認を得るためのものである」という見解を述べていたので、びっくり。
一昔前なら、「できるだけ楽をして高い給料をもらいたい」とか「サービス残業とかバカみたい」とか「過労死するサラリーマンなんか信じられない」というクールな回答がマジョリティを占めたであろうが、いまどきの女学院生たちはバイト先の「店長」や「正社員の同僚」たちがどれほどよく働いているのか、身近によくご存じであり、その姿に素直な「敬意」を抱いておられるのである。
よいことである。
まったく、お笑いである。
内田樹は労働を普段から論じている。
自身の主張をゼミ生に伝え、書に記し、インターネットに書き綴っている。
15名のゼミ生は当然それを読み、内田樹がどんな事を「よいことである」と思っているのかを知っている。
結論から言うと、内田樹は敬愛されているのだと思う。
15人のゼミ生から「貢献価値のあるグループだ」と認識されており、内田を失望させないように、あるいは内田の主張を受け入れ、内田が「よいことである。」と思うようなレポートを提出したのである。
もちろん、院生と教授という関係上反感を買えば人生においてマイナスになると恐れられている可能性もある。しかし、僕としては教育者論説者としての内田樹という知性を慕って集まった女学院性は、彼に対して妄信近い尊敬を受けているものだと推測している。この、15人が同じレポートを出した、というのは「内田心の予測」という過剰な労働の成果であると僕は考える。それが、意識的に行われたものか無意識下で最適化されたものかは判断不能であるが。
話を、戻す。
NEETを働かせるにはどうすればよいのか。
それは、人々を悩ましている問題である。
彼らの愛しているグループは、自身の手の届かない場所にあるグループである。
イチロー鈴木を愛する英語の達者なニートに「イチロー鈴木の通訳」という貢献の場を与えたら、彼は賢明に働くであろう。しかし、普通のニートはイチロー鈴木との距離が遠すぎ、それを貢献可能なグループであると認識できないのである。堀江由衣のマネージャー、内閣総理大臣の政務秘書、ギターウルフのベーシスト、全てが遠すぎるのである。
これらをNEETに近づけるのは不可能である。
いくら彼らに夢を説いても、「遠すぎるじゃん」で終わりである。
「働けば美人の彼女が出来るかもよ!」
という近づけ方すら、NEETは「非現実的だ」、「遠すぎる」、「価値が見いだせない」、「想像できない」といった理由で却下し、彼らがその「未知のグループ」を認識する事は無い。
では、どうすればいいのか。
簡単である。
ニートが既に所属し、「低価値」あるいは「無価値」だと判断しているグループを「愛すべき価値のあるものだ」と認識し直させてやればよいのである。
それは家族でもよいし、兄弟でもよい。
友人でもよいし、かつての級友でもよい。
もちろん、未来の配偶者と築く幸せな家庭というグループでもよい。
しかし、それらは往々にして困難である。
ニートは20年の人生において両親を「低価値なグループ」であると認識し、10年以上の学生生活において仲間というものを「低価値なグループ」であると認識し、さらに自分自身が未来に所属し得るであろう家族をも「低価値なグループ」であると認識してしまっているからである。
ニートは低~中学歴者に多く、生じやすいのは低所得労働者の家庭という統計から見ても、両親、自分、自分を取り巻く人間関係、という手近なグループを「愛すべき価値のあるグループだ」と認識させ直す事は不可能に近いと言い換える事が可能な程に困難であろう。
「未来の価値あるグループに所属している自分自身」というものをニート自身に想像させる事が最も簡単な手法であると思うが、グループに所属していない人間に再認識、再評価を促すという作業は非常に困難であるからして、それすら不可能に近いと思う。
繰り返す。
ニートとは、認識不全である。
親兄弟を貢献価値のあるグループだと認識し損ね、
職場や同僚を貢献価値のあるグループだと認識し損ね、
将来の配偶者を貢献価値のあるグループだと認識し損ね、
貢献価値のあるグループに所属している将来像を思い描けない人間がNEETになるのである。
ニートを働かせるのは簡単である。
所属しているグループのどれかを、労働に伴う肉体的疲労や心労を上回る程の貢献価値があるものだと認識させさえすれば、ニートはすぐに働き始めるのである。
働きアリには所属するグループがある。
働き蜂には所属するグループがある。
ニートにも所属するグループはある。
ただし、それらには貢献価値が無いと認識しているのである。