2005年5月30日月曜日

新聞は弱者の娯楽。インターネットは強者の道具。



ブログをサーフィンしていると
「新聞なんて読まなくなった」
と書いている人をよく見かける。

新聞なんて浅くて邪魔で役に立たない無駄なゴミだ、と。





ごもっともである。
けれども、それが新聞の良さなのである。

新聞とは何か。
それは、娯楽だ。

インターネットが優れた道具であるのと同じくらいに、
新聞は非常に優れた優しい娯楽なのである。


新聞は娯楽である。
役に立たない無駄な知識を提供する媒体である。
それを抜きに新聞を見るのは間違っていると僕は思う。






対して、インターネットとは何か。
それは、道具だ。
強者の道具だ。


道具と娯楽を比較する、というのがそもそもの間違いである。
インターネットは道具であるからして、娯楽に使う事も出来る。
新聞に書いてある事はインターネットを使えば、大概は、手に入る。






だけど娯楽としての新聞には多くの優れた武器がある。
役に立たない無駄な知識を得て楽しむ娯楽としてのインターネットが逆立ちしても太刀打ちできない点が幾つもある。






その1つがユーザーインターフェースだ。


新聞には奥行きがない。
常に1階層である。
とにかく、浅い。

1面..見出し+記事
   2面..見出し+記事
   3面..見出し+記事
   4面..見出し+記事
   5面..見出し+記事


面はカテゴリー。
カテゴリーを選択すると、概要とコンテンツが全て表示される。

ページをめくるだけで、情報の最深層にまで到達出来るのである。
政治、経済、国際情勢、書評、お悔やみ、波留敏夫の打率、渡辺淳一のエロ小説。
見事に整理されており、あっという間に辿り着ける。
カテゴリー毎に全てが一目で見渡せる。
絶対に迷うことなんて無い。







それに対して、インターネットは1階層ではない。
とても深く、それぞれが細分化されている。


新聞社のサイトだと「トップページ..見出し一覧..記事」という構成である。
さらに、記事はそれぞれ独立しており、他の記事を読もうとすると


トップページ..見出し一覧..モビット..記事..吉岡美穂..記事..記事..見出し一覧..記事..[PR]..記事..


と、最悪のユーザーインターフェースだ。
読む数だけの手間がかかり、カテゴリーを選択しただけでカテゴリー内の全ての記事が読める新聞の簡易さには敵わない。インターネットは腐ってる。





この差の根底にあるのは、モニタサイズの違いだろう。
とりあえず現段階では「新聞と互角のモニタ」というものを想像する事が出来ない。まあ、ウェブサイトはどこもかしこも腐ってる、ってのも大きいけれど。新聞のように広告は別枠、なんて手加減はしてくれないから。

その点で、インターネットは新聞を追い越す事は出来ない。
弱者にとってユーザーインターフェースは非常に重要なのである。




そして、インターネットは弱者に厳しい。
PCの電源を入れる、IEを起動する、サイトに飛ぶ、記事を選ぶ、記事を読む。
辿り着くまでの道のりは長く、時間も労力も必要になる。
それは強者にとっては0に近いコストであっても、弱者にとっては気力のいる作業だ。
逆に、新聞は紙である手に取るだけで楽しめる。
弱者にとってもそのコストは0に近い。






新聞の武器は他にもある。
それは、価格だ。

「新聞は高い。」
「金の無駄だ。」
と、書かれたサイトを幾つか見かけた。

月4000円は高い。
確かに、高い気がする。





「4000円あれば一ヶ月のブロードバンド料金が支払える」
「4000円あれば名著が数冊買える」
「4000円あれば1日遊べる」

しかし、それは強者にのみゆるされる娯楽である。





持つ者、強者、興味富豪。
そういう人間にとって、娯楽に要するコストは低い。

興味が尽きないわけだから、目にするもの全てが面白いし、興味が尽きないわけだから、いくらでも新しい物へと目を向けられる。金の使い道は無限にある。



けれども、持たざる者、弱者、興味貧民。
そういう人間にとって、娯楽に要するコストは高い。

新たなものへと手を出す気力は起きないし、何に対しても興味が沸かない。
そのような弱者にとって、1日100円で自宅にまで届けてくれて、「情報を入手する」という娯楽が24時間好きな時間に読み放題というのは、とても魅力的なものである。

なにより、新聞は興味富豪への足がかりとなりうる。
様々な情報が広く浅く小出しにされており、大概のものはカバーする。

新聞というのは弱者の人生を豊かにする可能性が非常に高い優れた娯楽なのである。







新聞を考えている人達。
彼らには、弱者の視点が欠けている。


新聞が「くだらない娯楽」であるという事を認識していない。
していたとしても「くだらない娯楽」である事が価値なのだと認識出来ていない。




新聞を作っている人達は知的興味強者だ。
それだけの人生を歩んでいるし、そういう中に生きている。
「役に立たない無駄な情報」というものに価値を見出せていないだろう。


けれども新聞に求められている第一は、優れたユーザーインターフェースで提供される安価で手軽な役に立たない速報性のある無駄な情報なのである。文章や報道としての品質が下がっても、「全カテゴリーが1階層でパッケージ化されている」という優位性が揺るぐ事は無いだろう。

もちろん、低品質であるよりは高品質であった方がよい。
より優れた文章を、より優れた報道を、密度の高い情報を、というのは非常に意味がある事であり、そうなる事には意味がある。けれども、それは受け手にとっては役に立たない無駄な情報の質が上がった、という微少な変化でしか無いのである。







ブログを書いているような人達も同じく知的興味強者だ。
娯楽としての無駄な情報を手に入れる手段をいくらでも持っているし、興味と時間と無気力の混ぜ合わさった人生を持てあます事も無いだろう。


けれども、そうじゃない人も大勢いる。
一握りの強者と多数の弱者、というのがあらゆる物の構成比率なのだから。




「新聞を読まなくなった」
そう書くことは、そう書くことだ。
「私は強い」
と同義語だ。

それを下品だとか下世話だとか言うつもりは無いけれど、そういう事であると僕は思う。あなた方にとって新聞が「無価値なもの」だとか「いらないもの」である事は十二分に理解出来るけれど、弱者の趣味を見下しているって印象がどうも拭えない。人の趣味を人の娯楽を弱者の楽しみを馬鹿にして殺したいと思うのは勝手だけれど、正直勘弁してくれ、と思うね。ジャーナリズム?心意気。けれども、求められているのは手軽で安価な役に立たない無駄な知的刺激としての情報である。



インターネットは強者の道具だ。
持つ者が好き放題に楽しめる道具だ。




「新聞は馬鹿が読むもの」
だなんて言うつもりはない。

新聞は非常に優れた弱者の娯楽である。