2005年5月25日水曜日

藤代裕之~裸の駄々っ子(4)






「新聞労連青年女性部集会」で、集会の参加者に簡単な街頭調査をしてもらいましたが、『とっている人はほぼ半分、読んでいる人は2割』というところでした。






ブログは読まれているのだという妄信的な誤解。


藤代裕之はそれを認識せずに、「新聞は読まれていない」という事を繰り返し叫び、「それに気がつかない新聞記者は馬鹿だ」と書き続けた。


寄せられる反響の数を根拠として「読まれている新聞vs読まれるブログ」という対立構造を作り出し、新聞は死ぬとの主張を続けた。






ウェブ上の文章は紙に比べて遙かに読まれないという、ネット上の文章が持つ致命的な弱点を彼は完全に無視し、紙の優位性は「信じたい人が信じている」幻想であると完全に否定した。


ガ島通信を読んでいた人間はどれくらいいたのだろうか。
僕は皆無であったと感じている。




ページビューはビューでしかない。
彼が「新聞は読まれているのだろうか?」という疑問を抱いたのは、「新聞が読まれていない事を知っている俺」vs「新聞が読まれていない事を知らない新聞記者」という対立構造を作り、自分を全国紙の記者の上へと位置づける為のアリバイ作りの為だったのである。




そして、似たようなアリバイ作りはブログ上でも行われた。
ちょっと込み入った正確性のある質問や疑念が来ると「あなたはちゃんと読んでいませんね」「過去のエントリーを読んだ上でコメントしてください」と、3桁に達した過去ログを読めと命令した。


「正しい俺vs悪い奴ら」
という綺麗な対立構造を描き、藤代裕之こそが世界の中心である、絶対に正しい存在であると位置づけ続けたのである。




『いまどき、新聞業界の構造的問題に無頓着な記者がいるとは思えません。それに「記事が読まれているから新聞が売れている」なんて暢気な記者も少数派でしょう』と書いてある人がいました。信じられないと思いますが、大半が無頓着で暢気です。






「議論がしたいのに職場では議論してくれる人がいない」
藤代裕之は繰り返した。





けれども、彼は議論が出来ない人間であった。





コメントに異論や反論が書き込まれると、「敵意」「感情的」「読んでいない」「嫌がらせ」「面白くない」と、原因を敵意へと求める。


いくらか名前のある、つまり記者という地位のある人物から批判があれば「全国紙的」「既存メディアに毒されている」「本当の問題点に気がついていないからそうなる」「私が言いたいのはそういう事じゃなくて」と、レッテルを貼って処理する。


敵意認定もレッテル張りも出来ない、まっとうな意義に対しては「いろいろと面白い意見が寄せられていて面白く読ませていただきました」と、とりあえずおだてた上で、「私の言っているのはそういう事じゃありません」「過去のエントリーも読んでください」と返す。


致命的な矛盾点が指摘されると、「マスゴミ体質に脳みそを浸食されてしまっているようです…」と、自己責任を絶対に認めずに無かった事にして流し、何も変わらない新規投稿を立ち上げてマスゴミを罵る。藤代裕之は議論を行う上で最低のルールである、何が問題であったのかを認める事が出来ない人間である。


どうやって議論しろ、というのだろうか。





彼は繰り返し書き込まれるコメントに対して反論、らしきものを行ったことがある。


『既存大手のどこが倒産に追い込まれた、あるいは追い込まれそうなのか。事例があれば、是非、教えていただきたい』って、毎日新聞一回つぶれてるんですがね…。
議論したいのか、単にいちゃもんつけたいのか良くわからない。



藤代裕之は、「ネットの登場で新聞は商業的にもうすぐ死ぬ」と主張した。持って10年だ、と。



そこで彼が持ち出したのが、1972年の西山事件である。
「議論したいのか、単にいちゃもんつけたいのか良くわからない。」




藤代裕之は、全てこれと同じ形で「自分に都合のいい事柄」を情報の中から断片的に取り出して利用し続けている。全てが主観、経験に基づく言論である。


そのような人物とどうやって議論すればいいのだろうか。







彼は、職場の人間に対してもレッテル張りを行っている。


>理由は一緒に行きたい魅力的な人がいないから。
偉そうな自慢話と説教でつまらない上司。


>危機感ないのかな~? 逆に心配になってしまいます。
職場のMLで労連の会合の誘いを流しても反応の無い脳天気な同僚。


>信じられないと思いますが、大半が無頓着で暢気です。
何も考えていない馬鹿な「>社畜」として描かれる記者。


>「本当に本を読まない」。多くの新聞社員と接するとそう実感します。
>特に、全国紙の記者ほど不勉強だと思います。
全国紙の記者ほど不勉強。


>例えば、このブログ界隈で議論されているベースとなっている湯川さんの名著
>「ネットは新聞を殺すのか-変貌するマスメディア」。
>経験的な直感ですが、新聞社員で読んでいる率は10%にも満たないでしょう。
ベースとなっている名著。経験的な直感。10%にも満たない。




彼が経験以外の数字を出した事は一度としてなかった。
マスゴミ批判よりは幾分かまともであった空港批判においても「データは無い」と後付で言う。


私の情報が正しい。
貴方の情報は間違っています。
私は実際に現場を見て確認しています。
貴方は不勉強です。


都合のいい所だけを読み、都合の悪い所には一切レスポンスを返さない。
そして最後に「このような議論ができて大変嬉しく思っています」と付け加える。



議論が出来ない人間が指す「議論」とは議論ではない。
彼がしたかったのは世間一般で議論と呼ばれているものではなかったのだ。


では、一体藤代裕之がしたかったものとは一体何だったのだろうか。




私は問題意識を持ち始めてから、積極的に新聞関係者の集会やシンポジウムに参加してきた。交換した名刺は3年で500枚を超えた。社員の誰とも会ったことがないという新聞社は数えるほどしかない。






「わるいのは新聞だ!」
藤代裕之は叫んだ。
けれども、誰も耳を貸さない。


職場のみんなが俺の話を聞いてくれないのはマスゴミ脳のせいだ。
問題点を上手く書けないのは、マスゴミの体質が染みついてしまったせいだ。


全部マスゴミのせいだ。
マスゴミのせいだ。
俺は悪くない。
全部マスゴミのせいだ。
マスゴミのせいだ。
俺の人生を狂わせやがって。


憎きマスゴミを罵倒してストレスを解消する場所。





そういや、そういうの、この前TVに出てたね。
読売新聞、髭、藤代裕之。




マスゴミ病にかかった記者にはまるで伝わらない…






藤代裕之がしたかったものの前に、藤代裕之。
文章から見えてくる人物像。





「コンプレックス」
頭の悪さと、全国紙記者への怨念のような鬱屈した感情。


「ミーハー」
引用から入り引用に終わる。「>湯川さんの名著」を馬鹿の一つ覚えで繰り返す。


「寂しさ」
レスポンスを求める語りかけで終わる文章の異様なまでの多さ。


「幼さ」




対テロ戦争
対テロといってもネズミです。我が家(といっても親の所有ですが)の天井裏に数ヶ月前からネズミが住み着いたらしく、就寝中にガサゴソ、ガリガリ。我が家では、このようなネズミのテロ行為に対し徹底抗戦を決意。「戦時大統領」ブッシュを見習い、先制攻撃ドクトリンのもと、ネズミの毒や罠(ゴキブリほいほいのようなもの)を仕掛けました。
しかし、しかし。罠には引っかからない上に、毒を食べ散らかす始末。嫌がらせなのかガリガリ音が以前より大きくなっている気が…。テロリズムは拡大の様相を見せています。
築10年の我が家。今までネズテロの被害はなかたったのに何故?? そういえば、今年は台風に地震、津波、火山の噴火と色んなことが起きました。もっと起きるのかも? 天変地異の予兆でしょうか(全く持って非科学的!)。


ここ数日真面目な話を書きすぎて、脳みそがウニ化してしまいましたので…。どなたか、対ネズミの有効な手段をご存知の方、ご一報ください。






幼さ。
藤代裕之の行動を見ていて、それは即ち投稿だけではなく、彼がつけたコメントと彼が方々に撃ったトラックバック、そして彼に寄せられたトラックバックと彼を取り上げたブログのエントリーを時系列順に追っていて最も強く感じたのは「幼さ」である。





例えば、自身への反論を全て「敵意からだ」と断言するのもそれである。
しかし、その「敵意からだ」という断定を行うには複線があった。


彼は、最初のうちはコメント欄でそれなりの反論を行っている。
しかし、まったく反論になっておらずちっとも噛み合わない。
必死で論点をずらし、なんとかして相手を打ちのめそうとしている。
もちろん、藤代裕之は問題点を指摘した論敵を叩きのめす事に失敗した。




それに失敗してからというもの、藤代裕之のコメントは、R30やあざらしサラダに代表されるような身内と脳天気な応援者へのものが大半を占め、エントリーに引き篭もった。





そして、自身を論破したコメンターを攻撃し始めた。


「どうも、感情的なコメントをつける人が」
「建設的でないコメントが最近増えています」
「議論したいのか、単にいちゃもんつけたいのか良くわからない」
「単なる嫌がらせだと思っていますがね」
彼が肯定したのは、身内のコメントと無味無臭の大絶賛応援コメント。





彼は強いコンプレックスを隠すために自分自身を「へなちょこ」だと名乗ってはいたものの、自分の不勉強さや頭の悪さを反論を受けて認めたことは一度としてなかった。


彼が「頭が悪くて」と自分の悪さを認めるのは、決まってどうでもよいエントリーの最もどうでもいいような箇所であった。一度マスコミを罵倒し始めると、藤代裕之は絶対神として定義された。ポケモンを遊ぶ子供の微笑ましい俺勇者症候群にも似た症状。悪いのはマスゴミで、正しいのは俺だと。







幼稚さ、と言い換えてもよいのだけれど、幼稚さよりもさらに幼い。
物心が付いていないのではないかと疑ってしまうほどである。




マスコミは常に自分たちを安全圏において、企業や行政を批判し続けます。
そして自分たちが批判されると感情的になったり、卑屈になったりする。
すでにこのあたりの構造は見切られています。






彼の孤独とコンプレックスは、強く結びついて存在していた。


藤代裕之は頭の悪さで地方紙へと辿り着き、無能さ故に職場で孤立した。
「>無頓着で暢気」に記者人生を送る同僚を横目に、記者としての本流から離れ、文化部へ飛ばされては「ネットは新聞を殺すのか」を繰り返し読み続け、労連に足繁く通う。


コンプレックスが孤立を生み、コンプレックスが孤独感を生んだ。
周囲の人間は全員が自分より優秀な記者という状況下でそれを受け入れる事が出来ずに「>重要なのは問題意識です。」と、自分が最も上に来る基準を作り上げ、無頓着で暢気な同僚を格下の存在として見下し続けた。







「藤代裕之は寂しかったのだ。」と括るつもりは今もない。
しかし、職場で孤立して藤代裕之が孤独であったのは紛れもない事実である。




新聞関係者の方はお分かりと思いますが、今や新聞社内に「青臭いジャーナリズム」や「本音で語り合える」場がほとんどありません。






藤代裕之はミーハーである。


それは自分で自分をミーハーであると何度も書いている事からも読み取れる。しかし彼の本質はミーハーではない。もっと致命的なものである。




彼のエントリーの多くは他ブログの引用で始まり、4~5行書いて他ブログを引用し、最後は結論として他のブログを引用する。「あなた木村剛?それともあざらしサラダ?」くらいの勢いである。彼の文章は後出しのなぞりに暴言加味しただけのものである。


それどころか、藤代裕之の思考回路、ガ島通信そのもの自体が「ネットは新聞を殺すのか」を独自解釈した劣化コピーなのである。




彼は文章を書くことが出来ない。
自分で物事を考えることも出来ない。


彼に出来るのは、都合のよい文章を探して都合良く解釈し、引用する事で自分の権威を高めるのに利用し、罵詈雑言というスキンを被せることにより「ガ島通信さんの文章」というアイデンティティをを作り上げることだけだったのである。




最も重要なのは記者の問題意識だと思います。






ガ島通信とは、藤代裕之の失われた10年を取り戻す為の戦いだったのである。


他にい表しようもない。
失われた10年を取り戻して自分自身の人生を正当化する為に彼は新聞を罵倒し、木村剛を罵倒し、高田昌幸を罵倒し、マスゴミを罵倒し続けたのである。





彼は文章を書く能力が無い。
記者としては無能である。
彼はそれを受け入れない。
自分が最も優秀であるという、新基準を作り上げた。


それは、「危機意識」である。



危機感を持っている自分が一番偉いとし、それに加えて「地方紙>全国紙」というコンプレックスに基づく新基準と、「社畜ではない文化部>社畜社会部、社畜政治部」という新基準に基づき「藤代裕之が一番偉い」ガ島通信という世界を作り上げた。


その世界観を壊そうとする者にはレッテルを貼り、罵倒して、ルールを守れと命令した。





「自分→職場」
という関係を認めてしまうと、職場では無能なおちこぼれ記者である自分自身に、失われた退屈な10年に対する責任が降りかかってくる。
職場を変えられない自分の責任を認めない為に「自分→職場」という関係を視認せずに問題を「自分→マスゴミ」という規模へと拡大させた。




マスゴミの体質のせいで職場が腐った。
職場が腐っているせいで自分が腐った。


自分がどう努力しても、マスゴミの体質が腐っているので職場は変えられないという上から下の流れを作り出し、責任を完全に放棄した。







藤代裕之は失われた10年を取り戻すことに成功したのだろうか?


僕は「成功した」と答える。
ガ島通信は、ハッピーエンドで幕を閉じたと考えている。





「藤代裕之にとっては」という条件付きで。




ブログは自分の思うことを書く場所です。バッシングになぜそんなに過敏に反応するのでしょう? きちんと議論できず、打たれ弱い、批判されれば皮肉を吐き捨てて逃亡。そして騒動は自分の責任ではなく、あくまでマナーのなっていないネチズンが悪いという「総括」(苦)。






セカイ系/はてなキーワード


過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識・行動する(主にアニメやコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称。



ガ島通信は、リアルセカイ系である。



藤代裕之が持ち出すデータは、全て彼の経験である。
ガ島通信に客観的なデータ、数字が登場した事は一度として無く、全国紙の記者やマスコミ人を罵倒する材料として提出されたものは全てが彼の、経験談であるかどうかも怪しいような独自の認識である。





これは、ガ島通信のアクセスデータからも読み取れる。2月からアクセスを解析しているが、上位は「OCN」「dion」などのプロバイダー各社が占めているが、その後には「NEC」「富士通」「日立」「ソニー」「東芝」「IBM」など、ITなどに関連する企業が並んでいる。あとは東京、京都、北海道、九州あたりの大学からで、新聞社と思われるIPアドレスは非常に少ない。「ガ島」周辺海域には、記者やメディアブロガーが多いが、特殊な海域に過ぎない。



藤代裕之がデータと呼んだもの・・・・論拠。
「ガ島通信のアクセスデータからも読み取れる。」



彼は目にしたものしか信じない。


いや、違う。
彼は盲目である。
信じたいものしか信じない、手のつけようのない子供である。




そういえば上司とは、ほとんど飲みに行かない。理由は一緒に行きたい魅力的な人がいないから。偉そうな自慢話と説教はご勘弁。










結局木村氏は、マスゴミ批判をブログ界に広めるため、「中越地震マスゴミ批判祭」を起こそうとしているようにしか見えません。






ガ島通信を彩ったブログと人。


木村剛は、最も重要な登場人物の1人である。
ガ島通信は木村剛を「マスゴミ批判をブログ界に広めようとしている」と怒りを露わにしたトラックバックを送りつける事で、数多くのブロガーに認識された。


木村剛は藤代裕之の指摘に沿う形で記事を改編し、ガ島通信を認めた。
以後、木村剛は数度に渡ってガ島通信を取り上げた。



木村剛とは何か。
それは自己プロデュースの天才である。


木村剛にとってのブログとは何か。
自己プロデュースの道具である。
己の価値を高めて世間に売り込む為の道具である。木村剛はありとあらゆる媒体を巧妙に使いこなし、自分自身を売り込み巨大化させ「木村剛」というものの商品価値を高め続けて生きてた、その道のプロである。


木村剛が藤代裕之の指摘を受けてすぐにエントリーの改変を行ったのは自身の価値を高める為である。木村剛にとってのガ島通信から撃たれた「怒ってます!」というトラックバックは、己の誠意を表現する最も好都合な機会の到来であり、自己プロデュースのプロである彼はそれを見逃さずに、即座に対応した。


そして、自身に対する批判的なトラックバックを寄越したガ島通信の投稿を数度にわたって取り上げ、藤代裕之という人間を価値あるものであると定義した。


「くだらない人間に揚げ足を取られた」といった認識を持たれては、自身の価値が大きく損なわれる。それを避けるに打って付けの対応が、「ガ島通信は優れたブログであり、藤代裕之は優れた指摘をする優れた人物」という定義付けである。木村剛にとってガ島通信文章の質や思考の正当性といったものは問題ではなく、最も利を得られる形でガ島通信を認め、取り上げたというだけの事である。




藤代裕之が週刊木村剛を売名場所として利用したように、木村剛もまたガ島通信を自分の価値を高める道具として利用し使い捨てたのである。言うまでもないが、木村剛は藤代裕之の人生にたいした興味は抱いていない。




互いに利用しあった、という他にもう一つ重要な事がある。
藤代裕之が目指したブログ運営像は、「週間!木村剛!」であったという事である。


藤代裕之は「週間!木村剛!」でよく行われている、書き出しに他ブログの引用を用いるという投稿形式を度々用いた。


木村剛はその「引用書き出し」により、引用元を圧倒できるほどの知をアピールする事が出来るし、読者との距離の近さと読者還元により自身を特別な存在へと高めている。


それに対して藤代裕之は「引用書き出し」「マスゴミ罵倒」「引用締め」という、引用だらけの継ぎ接ぎとなってしまっており、木村剛のような神格化は起きなかった。自身の価値は高まらないままで、トラックバックセンター化と信者によるコミニティ化という現象だけが起きたのである。


そもそも、木村剛ならば「頭の悪さ」を責任にして自己プロデュースを放棄し、「大学」そして「地方紙」に、二束三文で身売りを行うなどという行動は取らなかっただろう。



木村剛は自分自身の為にガ島通信を認めた。
藤代裕之は木村剛になろうとした。
けれども、なれなかったのである。
役者が違ったのである。




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