2005年8月1日月曜日

リアルセカイ系の対義語



人は誰もがリアルセカイ系である。
十歳から十五歳の頃までは。

けれども、気がつくのである。
自分の意識の外側にも、セカイは続いている事に。






ところが、である。
幾らかの人多くの人が、リアルセカイ系へと墜ちる。

自分こそが世界標準であると認識し、自らよりも優れているものには嫉妬と羨望を、自らよりも劣っている人間には軽蔑と哀れみを注ぐようにと、成り下がる。リアルセカイ系とは、即ち退化であると僕は考える。






なぜ、人はリアルセカイ系になるのか。
それは、生活が原因であると思う。

繰り返される朝と夜との狭間で人間は呼吸を繰り返し、その身を少しずつ変化させてゆく。思考、感情、意識。そういうものの外側で、習慣、日常、無意識というものが人を変える。
それらに抗う心を持った人間は、リアルセカイ系にはならない。


リアルセカイ系とは、欠如である。
それは、外側に続くセカイの記憶の欠如である。
それは、セカイは多様であるという包容さの欠如である。
それは自分自身は正しいという傲慢さ、即ち繊細さの欠如である。




事実、世界はセカイなどでは無い。
それを認めずにセカイであるとする事は、世界の否定である。


他者の否定であり、思い上がりであり、冷たさでもある。
人生は長く、一日は長い。気がつかない内に何かを忘れ、何かを信じてしまう。多くの人が他者を否定し、思い上がり、傷つかないようにと冷たさで我が身を守る。繰り返される日常の繰り返しにより、心は容易く溶けて、セカイの中心で何かを叫ぶ。何を?知らない。











セカイ系は不幸ではない。
対して、リアルセカイ系は不幸である。

セカイ系とは、お話である。
アニメであり、漫画であり、小説である。




それらセカイ、言い換えるならば作り上げられた世界観の下では、「私→世界」という直接的な繋がり認識は正しいものである。けれども、現実はそうではない。

リアルセカイ系に陥っている人間の、限られた情報と限られた視界による「私→世界」という直結は、事実とは違うものである。世界の全てを見渡せる人間などいないのだ。それを忘れたリアルセカイ系とは、それ即ち誤認識であり、不幸せである。




ジョジョの大冒険において時が止まることや、セーラームーンにおいて不思議なブローチで変身すること、あるいは北斗の拳において体を突いただけで体が破裂することなどは事実である。疑う余地のない真実である。

けれども、リアルにおいて時が止まることや、不思議なブローチで変身すること、あるいはベアークロー2本で100万+100万で200万、 いつもの2倍のジャンプで400万、更に3倍の回転を加えればバッファローマン、お前の1000万パワーを超える1200万だ!




もちろん、「幸せな誤認識だ」と言い換えることも出来なくはない。
ただ、それは本人にとってのみであり、知らぬが仏の世界である。











リアルセカイ系。
即ち、認識の範囲内だけがセカイであると信じる。
対して、目にしたことがないものを存在しないものとして扱う。


リアルセカイ系の逆。
即ち、目にしたことがないものを信じる。
対して、認識の範囲内の事柄を存在しないものとして扱う。




リアルセカイ系と逆リアルセカイ系に、大した違いはない。
両者とも、存在するものを信じる一方で、存在するものを無いとする。
言うまでもなくダブルスタンダードな誤認識であり、不幸せな過ちだ。








逆リアルセカイ系は何と呼ぶのが相応しいのか。
リアルセカイ系の対義語とは何なのか。




目の前にある現実は存在しないものとする。
見たことがないものを信じる。
逆リアルセカイ系。


僕はそれを、「希望」と呼びたい。