2005年9月16日金曜日
ブログとリアリティショー。
面白いリアリティショーと面白いブログの違いを論じるのは時間の無駄だ。
セックスとDOTAと海砂利水魚の面白さを比較し書くのと同じくらいに時間の無駄だ。
アサヤンのモーニング娘オーディションとか、電波少年の猿岩石とか、あるいはテレ東のTVチャンピオンだとかいったような、人間になにかをさせてその模様を映し出すというTV番組のジャンルがある。
いわゆる、リアリティショーと呼ばれるものである。
1人の人間が文章を書き続けるブログというものは、極めてリアリティショー的なコンテンツである。けれども、ブログはリアリティショーには成り得ない
なぜならば、ブログは常に大本営発表だからである。
リアリティショーでは演者とは別に編集者が存在し、どの場面をどのように放映するかという点において、演者はなんの権力も持たない。対して、ブログはブロガーに全ての権力が集中している。書こうが休もうが自由であるし、どのような内容を書くかも自由だ。書きたくない事は絶対に書かれずに、書きたいことばかりがUPされる。
もちろん、擬似的にリアリティショー的面白さを再現する事は可能である。
多少の筆力とある程度の時間があれば、あたかもリアリティショーのようなブログを作り上げるのは簡単な事だ。ブレアウィッチプロジェクトのようなブログ、とでも言えばよいのだろうか。
けれども、疑似リアリティショーブログとて「ブロガーが見せたくないものは見せない」というselfメディアの闇からは逃れる事が出来ない。例えば実録鬼嫁日記はリアリティショー的ブログを装ってはいるが、全然リアルではないし、リアリティショーには成り得ない。
故にブログは真のリアリティショー的面白さを得る事は出来ない。
と言っても、selfメディアよりもリアリティショーの方が面白い、あるいは優れているという話をしているのではなく、別物であるという話をしているだけである。
そこで、我が国における最もリアリティショー的なブログはどれであるかと考え探していると灯台もと暗し。当ブログにリアリティショー的ブログであった時期が存在していた事に気がついた。
過去当ブログでは、DOTA allstarsというゲームをひたすらにプレイして、そのプレイレポートをやたらめったらUPし続けていた。それはゲームの結果という不可抗力への感想を書き続けるという作業である。
ボロボロに負けたり、散々な結果でストレスだけが溜まったゲームであっても、「ボロボロに負けました」などと書きたくもないのに律義に書いていたし、ストレスだけが溜まってどうしようも無い気分であった時も、次のゲームに行く為に懸命にプレイレポートを書き続けていた。
その、「自分ではどうしようもない」という不可抗力こそがリアリティショーの胆なのではないかと思う。
その視点から見ると、しょこたん☆ぶろぐはリアリティショーであり、真鍋かをりのここだけの話はリアリティショーではない。
真鍋かをりのここだけの話が常に大本営発表であるのに対して、しょこたんは今の形式でブログを書き続けている限り、「カメラに映る自分の姿」という不可抗力から決して逃れる事が出来ない。また、「毎日数十エントリー」という義務的な不可抗力も生じてしまっている。その、しょこたん本人ですら介入することが出来ない不可侵性こそがしょこたん☆ぶろぐのリアルであり、胆である。
逆に、真鍋かをりのここだけの話は編纂能力、リアルへの干渉介入能力こそが胆であり、両者はまったく別の形式のブログなのだと思う。
結局の所、尋常成らざる長期間に渡り1人の人間がその日常やら思考やらを書き続けるブログというメディアはどうしてもリアリティショー的な側面が出てきてしまう。そして、それは「偽物のリアリティショー」であり、全てのブロガーはその闇から逃れる事は出来ない。
即ちブログに心を奪わらしものは皆全て、未来永劫永久に、偽物のフェイクショーの真っ直中をフェイクフェイクで漂い続ける運命にあるのでる。