2005年10月4日火曜日

人は皆、醜い。



人間は醜いものである、という大前提をブログ読者は忘れているのではなかろうか。













ブロガーは皆、美しい。
いうまでもなく、美しい。
とてものすごく、美しい。


美しさとは何であるか。
それは、感情である。
喜怒哀楽の中の1つに、美というものがあるのである。


感情であるが故に美は多様なのだ。
人の数だけ美しさがあるのである。






そしてブロガーは皆、美しい。
何故ならば、ブロガーは自由だからである。

ブログという空間は自由そのものである。
性別を偽る自由。
年齢を偽る自由。
学歴を偽る自由。
職業を偽る自由。

ブロガーは絶対的に自由である。
削除する自由。
投げ出す自由。
逃げ出す自由。
閉鎖する自由。

一切の制約は受けない。
書く自由。
書かぬ自由。
正確に書く自由。
曖昧に書く自由。


全てが大本営発表である。
故にブロガーは美しい。

自由に振る舞える事がイコール美しさであるのは当然である。
人は誰しもが美しくありたいという根源的欲求を持っている。
何人たりともその根源的欲求、即ち美えの執念から逃れる事は出来ない。

「私は美しさを偽ってなどいない」主張するブロガーもいるだろう。しかしそれとて偽り美である。美しさを偽らないという、偽りの美しさである。

自由に振る舞えるという事は、自由に振る舞えてしまうという不自由なのである。
ブログという自由を手に入れた人間は皆平等に、美しさを手に入れたのである。
ブログという不自由に囚われた人は皆、逃れ得ぬ美を手に入れたのである。


ブログという自由が完全に保証された空間は、美しくありたいという人間の根源的欲求、言い換えれば最も醜き欲望の爆発する場所なのである。"ブログ"という部位を"インターネット"と書き換える事も可能なのだが、ホームページに存在していた敷居の高さを取り払い、かつ一般市民にまで滲透したブログというツールこそが、2005年というネット時代の美の神器であると言えるだろう。




人々は、忘れている。
人は皆醜く、その醜さの最も醜き欲望が爆発し噴煙舞い飛ぶ場所こそがブログである。対して、ブログ読者はあまりにも無垢だ。いたいけな子羊だ。1人残らず食べちゃいたい。脚の付け根を嘗め回したい。腋の下まで嘗め回したい。














即ち、人間とは醜い生き物である。
けれども僕は、美しい。