2006年10月30日月曜日

英語が出来ると人生はもっと楽しくなる。他にどんな理由がいるっていうんだ。




「英語やっていると受験・就職に有利、お金持ちにだってなれる」という本音むき出しの主張なら、ものすごくシンプルに論理的だが。



やめてくれと思う。
いや、やめにしようではないかと思う。



「俺の方がシリアスな見方をしたから勝ち」だとか、「俺の方がシビアな意見だから本質貫いてやった俺かっこいい」だとか、「夢見がちな若造供には大人の世界の厳しさってものを教えてやろうじゃないか」みたいな態度はもういい。そういうのはもうこりごりだ。飽き飽きしている。満腹も満腹食傷である。インターネットは、即ちブログはそういう人々で埋め尽くされており、そういう人達がありがたがられてる。「言ってやった言ってやった!」といい気になるブロガーと、「言ってくれた言ってくれた!」と崇め奉るインターネッターとで、小さく偏狭的で広大なインターネットが形成されてしまっている。思慮深さとか、正確さとか、そういった類の古い概念はまったくもって省みられず、極めて無秩序な歯に衣着せぬがありがたがられる。ニヒルを気取れば君もスターだ立派な物言うブロガーだ。




まったくもって間違っている。
まったくもって、素直さが足りない。


そうである。インターネットには素直さが足りない。ブログには素直さというものがまったくもって足りていない。人生はもっと楽しく、世界はもっと楽しい。即ちインターネットとは、元来楽しいものなのだ。その実体は、どうあれど。







「英語やっていると受験・就職に有利、お金持ちにだってなれる」という本音むき出しの主張なら、ものすごくシンプルに論理的だが。



このどこが、本音むき出しなのかと思う。
このどこが、シンプルなのかと疑問に思う。
この主張のどこに一体、論理性などというものが存在しているというのか。



英語をやっていても受験には有利にならない。
同じように、英語をやっていても就職に有利にはならない。
何故か。
答えは簡潔にして明快。
皆が英語をやっているからだ。


英語をやっていればお金持ちになれるだって?おいおいNOVAか。その手の輩か。それともイオンかイーシーシーか。いったいどこの手の者だ。馬鹿な冗談を垂れ流すのはいいけれど、物には限度というものがある。大概にしてくれ。







平均的なレベルからはかけ離れた高い英語力を習得した人間が受験や就職といった面で有利なのは事実だ。しかし、そんなエリート供の事はどうでもいい。一部の人間の実例や実態を取り出して、それを論拠にさもありなんを語るのは害悪でしかない。


2006年、平成で言うと18年。多くの市井の人間にとって、英語とは人生を楽しむための道具なのである。少しの英語が出来るだけで、人生はもっと楽しくなる時代が今、まさに、ここに在るのである。




若林俊輔(『新英語教育』1992年6月号 p.25)



もう、まず、英語を語るにおいて、1992年の文献を引いている時点で間違いである。お話にならないと言ってもよい。少なくとも、英語を語るならば、1995年以降の文献を引かないことには話にならない。Windows95の登場以降に書かれたものでなくては話にならない。Yahooの創業が1995年、googleが同じく1998年。



前時代の感覚と、前時代の常識で、現代の物事を語る事ほど愚かなものはない。インターネット以前の常識で英語を語るという事は、自動車以前、いや鉄道以前の常識にて現在の物流を語るに等しい愚の骨頂である。




なぜ、英語なのか。
なぜ英語でなければならないのか。
それは、英語がインターネット語だからだ。


国際語だとか、共通語だとか、世界語だとか、そういった虚語、幻想を忘れ去ろうという向きには大賛成だ。しかし、今から未来にかけての英語という言語は、そんなくだらないものよりも、もっと大きな存在なのだ。即ちインターネット語である。




かつて、「英語の出来る人が世界中に存在している」という事実は、「英語の出来る人が世界中に存在している」という事実でしかなかった。


「英語が出来れば世界中の人と友だちになれる」というのは、「日本語が話せれば1億2000万人と友だちになれる」と同等の性質の悪いセールストークでしかなかった。


「英語が出来ればいざという時にも安心」などというのは、庶民からすれば、現実味の無いまったくの、空言妄言その類でしかなかった。







けれども、インターネットはそれらを完全に変えてしまった。




「英語の出来る人が世界中に存在している」という、我々とは遠い世界の1つの事実でしかなかった事は、blogの力を借りた今、「英語で情報を発信している人が世界中に存在している」という事実へと差し替えられた。


「英語が出来れば世界中の人と友だちになれる」という悪い冗談は、「英語が出来れば世界中の人の書いた文章に触れられる」という現実へと姿を変えた。


「英語が出来ればいざという時にも安心」という妄言は遠く過ぎ去り、「英語が出来れば人生はもっと楽しくなる」という新たな時代が訪れた。




これまでは世界中に散らばって、人知れずひっそりと存在し消えて行っていたような優れた文章は、今では「有志」という言葉に象徴される市民の手によって、全て英語に変換されWeb上に、アーカイブ化され生き残る。同じように、優れた英語のテキストは、「有志」という言葉で象徴される市民の手によって、各国言語へと変換され、これまでとは比較にならない猛スピードで、世界中を情報が駆け巡る。





インターネット時代の到来である。
現代において、インターネットの標準語は英語だ。
そして、未来においてもインターネットの標準語は英語だろう。





即ち、もう、これまで存在していたような、くだらない英語への先入観は捨て去るべきなのだと僕は思う。英語は変わったのだ。




まず、アクセスが変わった。
かつて、庶民が英語の文章にアクセスするのは、大変だった。まず何よりも、英語で書かれた本は高かった。下手をすれば、邦訳本より高かった。それどころか、手に入れる事さえ困難だった。書店では全くと言って良いほどに取り扱われていなかった。


けれども、今は違う。
インターネットは英語で満ち溢れている。googleニュースを使えば、悪くて遅い日本の報道機関が翻訳ニュースを翻訳するよりもずっと早く、新鮮で刺激的な世界の最新の情報を好きなだけ読み漁ることが出来る。アクセスも何も、向こうからやってくると言ってもよい。RSSが英文を運んでくる。ニューヨークも、ロンドンも、ドイツもイタリアまでもが今や英文で満ち溢れている。amazon使えば洋書も買える。




そして、アクセシビリティが変わった。
古い時代のインターネットでは、英語が読めた所で、良質のテキストに辿り着くのは非常に困難だった。大きな新聞のWeb版などで、プロの書き手が書く文章をだらだら読むくらいしか、方法は無かった。


けれども、今は違う。
世界中の人々が、こぞってブログを書き始めた。プロゲーマーが、作家が、教授が、政治家が、エッセイストが、コメディアンが、学生が、ありとあらゆる階層の、ありとあらゆる趣味を持つ、幾億万の人々が、おもしろブログを書き始め、そしてその中でも特筆に価する面白い書き手の面白い文書はソーシャルブックマークや、ブログとブログを繋ぐトラックバックやディープリンクな口コミに乗って、簡単に見つけ出せるようになった。




さらに、コストが変わった。
かつては極めて英語能力の低い人間が英文を読もうとしたならば、分厚い辞書を一語一語引かなければならなかった。それが、今ではどうだ。Web自動翻訳を使えば、原文付きで文章全てが翻訳される。ホイールクリック一発で0.1秒待たずして、全ての英単語が邦訳される。googleツールバーを使えばポップアップで意味が出る。少し出来る人間ならば、同じ要領で英英辞書も引き読める。




英語能力が0に等しいこの僕が一日に7つもの英文blogを数十分で読めているのは、正しくインターネットとgoogleの賜物以外の何者でもない。時代が変わったのである。7つのうち6つはゲームのblogであり、1つはフランス人、1つは韓国人、1つはドイツ人のものだ。これらのblogを読まなくなれば、僕の人生は圧倒的につまらなくなる。言いきってもよい。少なくとも僕にとっての英語とは、人生を楽しむ道具以外の何者でもない。英語が出来て本当に良かったと心から思う。いや、全然出来ないのだけれど。


並の人間であれば、それこそ、やりたい放題すき放題だろう。自らの好きなジャンルの話、自らの好きな分野の事柄、自らが関心あるものについて、いくらでも読めるのである。これが幸せでなくて、何であろうか。日本のblogを見渡しても、英語の文章を翻訳したり、紹介したりしているblogは山のようにある。彼らがそれらのサイトを読むのは、「面白いから」に他ならない。そして、彼らの多くは良心的にも、情報元へのリンクを貼ってくれている。誰だって、そのような英文へのリンクを目にした事があるだろう。それらは、「面白い」が故に貼られているのであり、「面白い」からこそ、彼らはそれを邦訳してくれてるのだ。そして、「面白い」からこそ彼らはそれを広めようとしてくれている。これに乗らずして、何がブログであるかと僕は思う。




面白い英文は劇的に増え、それを見つける方法も増えた。今ではインターネットを5分10分漂うだけで、面白い英文に出会う事が出来る。そして、その時代の波が世界を読んで、世界中の人々が積極的に英語で発信するようになった。中国人が、ブラジル人が、ドイツ人が、日本人が英語でテキストを書くようになった。母数が違うからだ。その母数の違いが人を呼び、「母国語インターネット」を後にした書き手が、より魅力的な場所である「英語インターネット」へと世界中から集った。エキサイティング。正しくエキサイティングである。




もう、これまでの価値観で英語を見るのはやめにしよう。英語を技術として見るのはやめにしよう。TOEICも英検も忘れてしまおう。英語テストも英語受験も英語就職も、どうせ僕ら庶民には程遠い話だ。そんなものは忘れてしまおう。自らと他人とを比較する為の道具として英語を用いるのはやめにしよう。英語を自らを優位づける為の道具として扱うのはやめにしよう。日本語が人生を楽しくする為の道具であるのと同じように、英語もまた、人生を楽しくする為の道具なのだ。








英語が出来るとインターネットはもっと楽しくなる。
英語教育の後ろ盾なんて、その事実だけで十分じゃないか。