2008年1月14日月曜日

決意をしない人が強い。



事あるごとに、決意ばかりしている。
だからなのだ。だから、僕は弱いのだ。

どうしようもなく、本当に、強い人というのは、決意をしない。たとえば、イチローなどがそうである。イチローに、「いつ、決意されましたか?」と問うたら、「そんなものしていません。」と無碍無く返されてしまうだろう。イチローは、決意をするより以前から野球をしており、イチローは決意をするより以前からイチローだったのである。




<決意>というのは妄想である。幻想である。無駄である。実際の所決意など、何の役にも立たぬのである。一匹のゴリラがある日突然に、今日から人間として生きると決意しても、ゴリラはゴリラである。お下げを結っても、ランドセルを背負っても、スクール水着を着ても、シルバーバックはシルバーバックである。どれだけ強い決意を持ってしても、決して人にはなれぬのである。人間として生きるには、人間として生まれる以外に道は無いのである。




ところが、僕は、駄目である。
何をするにもまず決意である。
決意が無くては、始まらない。


真夜中に目が覚めて、二度寝しない決意。自分の事が昨日よりも少しだけ嫌いになって、自分の事を決して好きにならない決意。PCの電源を入れるのがおっくうになって、PCの電源を入れる決意。どうせインターネットには何も無いのでLANケーブルを引き抜く決意。やっぱりインターネットが無いと寂しいのでLANケーブルは差し直すけれど、wikipediaサーフィンみたいな無駄な事は、けっしてやらない決意。

決意、決意の大安売り。決意、決意の山また山。ケツイで喩えると火蜂くらいの勢いで決意決意の雨あられである。中には頑なに守り続けられる決意もあるし、瞬く間に翻意されてしまう決意もある。けれども、どの決意が守られ、どの決意が見捨て裏切られたのか、もう多すぎて思い出せない。僕の思考と感情は決意の中で窒息し、僕のsmallな人生は、決意に埋もれてしまっているのだ。




イチローと野球の間には、決意なんて存在しなかっただろう。これは憶測にすぎないけれど、僕はそう思う。同じように羽生善治と将棋の間にも決意は存在しなかっただろうし、ラリーペイジと検索エンジンの間にも、決意は存在しなかっただろう。宮本茂とゲームの間にだって、きっとそうに違いない。

イチローが野球を始めたのは、親が無理矢理に野球をさせたからである。イチローには、決意をする暇なんて無かったはずである。とにかく野球をするしかなかったのである。宮本茂も同じである。宮本茂がゲームを作り始めたのは、会社が仕事を割り振ったからである。宮本茂には、決意をする暇なんて無かったはずである。とにかくゲームを作るしかなかったのである。ビルゲイツにしても、羽生善治にしても、あの伝説の三船俊郎にしたって、同じだろう。決意なんて、無かったのだ。

マロリー卿と登山の間にだって、決意なんて無かった。
ただ、<そこに山があっただけ>なのである。




凡人は、決意を大切にする。決意というものを神格化して、とても大事にする。平凡な自分と、天才と呼ばれる成功者達の間に横たわる壁は、決意の壁だと考える。「彼らは決意によって成功を手にし、私は決意の無さが故にそれを手に出来ていないのだ!」と盲信し、決意を行う事により、僅かは、少しは、幾らかは、彼らの手にする成功へと近づけると思い願っているのである。


「私がイチローに近づくには」という問いに対して、「決意する」という答を用意し、「私がクリックに近づくには」という問いに対して、「決意する」という答を用意し、「私がジョブスに近づくには」という問いに対して、「決意する」という答えを用意する。

そして、決意するのである。
これが、間違いである。
大きな間違いである。

「私がイチローに近づくには」という問いに対する最も真っ当な回答は、「一本足で打席に立つ」である。「私がクリックに近づくには」という問いに対する最も真っ当な解答は、「学問を修める」だろうし、「私がジョブスに近づくには」という問いに対する最も真っ当な解答は、「糞OSがプリインストールされたPCを馬鹿に高値で売りつける」だろう。

<決意>というのは、それら当たり前の事を行いたくない、無責任な人民が作り出した幻想にすぎない。砂上の無力な楼閣である。それどころか、決意というものは、何かを成し遂げる上で、それを妨げる力となる。非常に害のあるものである。法で規制されていない、ハシッシのようなものである。自らに気合いを入れて、鼓舞して、頑張って、やる気を出して、決意決意を繰り返している人は、もう、完全に、駄目な人である。あちらの世界に行ってしまった人である。








僕は引きこもりになる決意もしていないし、ブログを書く決意もしていない。
とても寂しいことだけど、そういうことなのだ。昨日も、明日も、眠たくなった。