美しさと醜さと、愚かさ。

自分がやっているゲームについて真面目に書いているブログが見あたらない、というのは如何にも不安な気持ちになる。僕の知る世界では、面白いゲームには、その面白さを語る面白い、真面目なブログが付き物だった。そういった事実の積み重ねで出来上がったのが「"A"というゲームについて真面目に書かれた面白いブログが存在しないという事実は、"A"というゲームは面白くないという事実を指し示す。」という僕の価値観だ。



dota2に関しては、ネットサーフィンの最中に、「dota2はGODLIKE」と書かれたエントリーに行き当たった。あのエントリーさえ読んでいなかったら、僕は全く違う人生を生きていただろう。誰かが「このゲームはgodlikeだ」と書いているものに対して、難癖を付けるような人間にだけは、絶対になりたくない、絶対にならない、という思いが強く芽生えてしまった。それまでdota2に対して「dota2をプレイしたらこういう事を書こう」と思ってた事を全て放棄する羽目に陥った。



自分自身が心の底から楽しいと思えないものを、無邪気に楽しんでいる人間を見た時、人は猛烈な嫉妬心に追い立てられる。退屈な毎日を生きている自分。何かを無邪気に楽しんでいる誰か。人はそのギャップを許すことが出来ない。それは才能に対する嫉妬なのだ。楽しむ才能が枯渇した人間が、楽しむ才能を持つ人を叩く。ありとあらゆる手を使って非難する。冷静で冷笑的な何かを巧妙に装いながら、誹謗中傷する。実態は、ただの嫉妬だ。楽しむ才能を持つ人間を不愉快な気分に陥らせる為に、隣の芝に黄土色の油性ペンキをぶちまける。楽しむ才能に対する嫉妬。人間の醜さの最たるものだ。



件のエントリーによって、僕のdota2に対する言論はdota2を入手するより前に死んだ。頓死した。完全に封じられてしまった。言論統制である。言論統制、言論統制。「あれ、それって正しい事なんだっけ?」。

俺達がインターネットを作る。俺達がインターネットを育てる。俺達が弛まぬ努力によって、素晴らしいインターネット、素晴らしい公共空間を形作る。読みたくないブログは書かない。悪いブログは書かない。良いブログだけを書いていこう。そういう考え方は一見すると、正しそうに見える。

けれども、それは本当に正しい事なんだろうか。たとえ何を書こうと、何を書くまいと、僕の醜さが変化する事はない。どれだけ体面を取り繕っても、僕の醜さは決定的に不変だ。いや、よくよく考えてみれば、僕の醜さは変化する。読みたくないブログは書かない。インターネットに相応しくない文章は欠かない。悪いブログは書かない。良いブログだけを書こう。そういう志だけが唯一、僕の醜さを変化させる。



それは、もちろん、悪い方にだ。どれだけ信念を語ろうと、その結果として生まれた所作が、自らの美しさを偽る行為である事は決して揺るがない。自らを美化し、自らを崇高で心の清い生き物であると偽る行為に他ならない。美しくありたいと願えば願うほど、何かを汚したくないと思えば思うほど、僕の醜さは純化され、心に重く伸し掛かる。人の振り見て我が振り直せという言葉があるが、インターネットは振る舞いたいように振る舞う場所ではなく、ありのままに生きられる場所だったんじゃないか。そんなものは、現実世界だけで十分だったんじゃないのか。着地点は見あたらない。美しさと醜さの狭間で、ローカルのテキストだけが積み上がっていく。これを愚かさと僕は呼びたい。