独裁者か、殺人犯か。

体が重い。肩が重い。吐く息が重い。全て間を置かず地に落ちる。首も瞼も座らず垂れる。薄い薄いまるでレイヨンのビニールシートが空から舞い降りてだらしなく椅子を覆う体を覆う。呼吸が出来ない。困ったことに。明るい話でも思い出そうとするがそんな記憶はない。そんな人生を生きてはいない。生まれ変わったら独裁者になって気に入らない奴を無差別に片っ端から粛清して回りたいという夢と、生まれ変わったら殺人鬼になって気に入らない奴を無差別に片っ端から殺して回りたいという夢の間には、どのような差異があるのかについて、昔からよく考えていた。結論としては独裁者には金があり、殺人鬼には金が無い、というあたりに落ち着いたのだが、それは僕の想像力の貧相さに起因する間違った結論であり、金をもった裕福な連続殺人鬼というのも存在するだろう。ただ、殺人犯という想定は現実の僕自身との距離が近いが故に、衣食住満ち足りた殺人鬼というものを上手く想像することが出来ない。そういった自らの人生経験の未熟さから来るノイズを振り払うと、最終的に殺人犯と独裁者の間に残る差異は、死への不安であるという結論に辿り着いた。粛清に狂う独裁者は人々を死の恐怖へと追い立てる。そして吹き荒れる粛清の嵐は、人々に死の恐怖をもたらすだけではなく、独裁者自らにも同じように死の恐怖をもたらす。はじめは憎しみの一心で、ざまあみろの一心で、むしゃくしゃして粛清をはじめたにも関わらず、やがては粛清の嵐の張本人であるはずの独裁者自らをも、突然殺されるのではないかという恐怖へと巻き込んでいく。そうなればもはや粛清という名の殺人は、本来の快楽殺人、営利殺人利己殺人の領域を離れ、義務であり、責務であり、生きる為の術になる。一方の殺人鬼はそれとは無縁である。連続殺人鬼が娼婦を1人殺す度に娼婦は恐怖で怯える。若い女も怯えるだろう。その殺人が老いた資産家に及べば老人も怯える。幼児に及べば幼児へと、青年に及べば青年へと死の恐怖は小さな嵐となって世を奔る。私もいつか殺されるかもしれないという不安が人々の間を颯爽と行く。しかしその死への恐怖は、殺人犯には届かない。世を騒がせる連続で人を殺しているのは他ならぬ自らである。日の高いうちは平気な面でいかにも不安そうな表情で「ひとごろしですか、連続殺人だそうで、おそろしいですねえ」などと言っておきながら、それは嘘である。明かな嘘である。殺人鬼は自らが殺人鬼であるというそれだけの理由により、不安の輪から逃れる事が出来る。この点が、決して輪を逃れられぬ粛清の独裁者とは決定的に違う。人々の不安は独裁者にとって自らの不安であり、人々の不安は殺人鬼にとっては自らの快楽である。