2015年7月9日木曜日

一番嫌いなものを憎まずに、二番目にあたるひと

僕の人生で、即ちブロガーになるよりも前の人生で、最も間違った行動は何であったかというとそれは、自らの都合によって、一番嫌いなものと二番目あるいは三番目に嫌いなものを入れ替え続けた事だろう。時には、もっと下位の、たいして嫌いでもないものを、一番嫌いなものとして設定した事もあった。安全に嫌えるもの、抵抗なく自然に嫌えるもの、意図的に選んで嫌っていたのである。嫌うのに危険を伴うものに対しては、それを嫌いなわけでは無いと自らを説得する一方で、安全に憎めるものをスケープゴートとし、嫌うのに危険が伴わないものを憎み続けた。自らの身を守りたいと願い、自己保身の己かわいさで、安易な選択肢を選び続けた。安全に嫌えるものが存在しない場合は、嫌いでも好きでもなく、興味すらないものを嫌いなものと設定し、それを嫌い、憎み、自己保身を続けた。今でもそのことだけは強く後悔している。

ところが、その強い後悔するも実はまやかしであった。僕は無数に存在する、安全に嫌う事の出来る事象を、自らの都合によって並び替え、取捨選択し、それを嫌い、それを憎み、胸の内で口汚く罵り、あるいは妄想の中で撲殺もしくは滅多刺しにして捨て、それが現実世界では(不可能ではないにせよ)困難である事を理由に自らを贖罪し、あるいは現実世界でそれを実行する勇気と行動力を所持していない事を、事もあろうか自らがまともな人間である事の根拠とし、称えさえした。

生きてきた長い日常の中で、その時々に応じて、自らにとって最も都合のよい憎む対象、嫌いな対象を都合良く並び替え、時には入れ替えて、捏造された番付表に応じてそれらを憎み、嫌い、罵り、戦い続けて生き延びてきた。全ては保身の為だった。それは、本当に憎むべきもの、本当に打ち倒すべきものを巧妙に隠蔽する為の工作でしかなかった。

一番嫌いなものを罵らずに、そんなに嫌いでもないものを一番嫌いなものとして設定し、それを口汚く罵るという光景は、僕の心の奥底に抗うことの出来ない絶望を伴う原風景として、強く強く焼き付いており、今でも少し心がふわっとして油断すると、どす黒く染みだして人生を黒く染め上げる。その黒く染め上げる光景に感じる絶望感こそが、僕が渇望していたものであり、何かから逃げる為の方便として、その全てが人為的に造られたものである事を、今ではよりよく理解している。