2015年4月8日水曜日

誰か

モニタを見て白い画面が広がりそこには誰もいなくて寂しい。
誰も居ないから寂しいのではなく、誰か僕がいなくて寂しい。





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2015年4月7日火曜日

インターネットをつまらなくしたのは、他ならぬ僕なんだ。

何か面白いことないかなと、繰り返すようにつぶやく人は、本当は面白いことなんて探していない。どうしてそう思うのかって聞かれても困る。そう思うという以上のものは何も無いのである。何か面白いことはないかな



柳の枝が風で揺れただけで面白かった頃が僕にもあったはずだ。あの頃の僕を面白さへと突き動かしていたのは、未知への希望だった。インターネットには僕の知らないものがまだ沢山あって、そのうちの幾つかは僕を必ず楽しい気分にさせてくれるだろうという根拠の無い確信があった。現実世界の全てには諦めきっていたけれど、インターネットに対してはそうじゃなかった。今ではインターネットに対しても、同じように諦めきっているように見える。



インターネット以前、どうして僕がこの世界の全てに対して、面白さなんてものは期待できないと思っていたかというと、それは揺るぎない自らの無能さがあったからだ。僕は努力をするつもりもないし、何かを目指すつもりもない。なりたいものなんてなかったし、ほしい物だってなかった。けれどもインターネットには、それがあったような気がするんだ。なんの努力もしなくても、満たされる世界。インターネットは僕の目に、そんなふうに見えた。目標なんてなくても、ただ空気を吸っているだけで楽しく生きられるインターネット。



どこかでそれは間違いだったって気づいたろう。本当にそれが間違いだったのかはわからないけれど、どこかでそれは間違いだったと気づいたのだ。そしてインターネットは楽しくなくなった。誰かのせいじゃない。僕のせいなんだ。インターネットがつまらなくなったのは、僕のせいなんだ。インターネットをつまらなくしたのは、他ならぬ僕なんだ。インターネットが楽しいなんてのは、僕の妄想だったのだ。インターネットなんて、最初からつまらなかったんだ。そんなはずはない。そんなはずはない

好きな人に夢の中で出会って

好きな人に夢の中で出会ってすべきことは
もう一度と願ってそっと目を閉じる事ではないはずだ。

2015年4月6日月曜日

泣き叫ぶようにキーボードを叩けば

泣き叫ぶようにキーボードを叩けば泣き叫ぶような文章が生まれるけれど、それによって記録されるのは泣き叫んだという事実だけで、泣き叫んだ分の体力を消耗して人生が失われる。泣き叫ばなければ泣き叫んだという事実は生まれず、人生は失われる。自分自身を焚き付けて自分自身を叩付けるように何かを書いても、その言葉は僕に届かない。誰かがどこかで泣き叫んでも、その言葉は決して届かない。やがて誰もが泣き叫ぶのをやめて全てのものが失われ、笑顔で朗らか生きていく。泣き叫ぶようにキーボードを叩けば、言葉は誰かに届くだろうか、思いは君に届くだろうか。泣き叫ぶようにキーボードを叩いても、僕は何も思わない。

2015年4月5日日曜日

失敗の音が聞こえる

失敗の音が聞こえる堕落の音が聞こえる耳をふさいでもそれは聞こえる外からではなく内側から、失敗の音が聞こえてくる僕を目覚めさせ、堕落へと導く

2015年4月4日土曜日

春に力が吸い取られていく

力が吸い取られていく
吸い取っているのは自分

必要の無い目標をたてて
必要の無い努力をさせて
必要の無い叱咤激励

時には自分を褒めたりして
あるいはどうしようもない
現実を叩付けたりもして

力が吸い取られていく
体のあちらこちらから
新緑が芽生えて育つ

初々しい茂みだった僕は
苦悩と努力を重ねた末に
枯れ木を引きずって僅かに歩く

葉は落ち、枝は折れ、根は腐る。
体の表面に大きく歪な穴を作って抜け落ちる。

そこから肉が腐っていく
痛みと悪臭に耐えかねて
澄んだ心も濁っていく

枯れた大木の最後の一本を
胸にしっかりと抱えて歩く

かつては命溢れる新芽だったそれも
今は腐って垂れている

命ある物はもう何も無い
吸い取る力も残っていない
けれども春、また、新芽が生える

今度は何を吸い取るつもりか
僕から何を奪い去るのか






2015年4月3日金曜日

くだらないインターネットってのはようするにくだらない人

くだらないインターネットを見て不愉快な気分になることが大好きな人達にとってのインターネットはまさに天国で、twitterなんかにはそういう人が大勢居る。くだらないインターネットを見て不愉快だ不愉快だと息巻いている人達である。

けれども僕のような普通の人間にとって、不愉快さは不愉快さでしか無い。そんなものを楽しもうという神経は持ち合わせていない。不愉快な気分になど、ならないにこしたものはない。であるからして、不愉快なインターネットを丁寧に回避しながらインターネットをしていると、インターネットは不愉快ではなくなるはずなのだがそこには落とし穴があって、インターネットとは結局の所は人間であり、不愉快なインターネットとは、不愉快な人間である。そして、不愉快な人間は不愉快であるが故に不愉快さの権化と化して近づいてきて、不愉快さを撒き散らす。心の底から死を望む。いやそんなものは生ぬるい。生きたまま豚に喰われてしんだとしても、連中によって作り出されたインターネットの不愉快さには遠く及ぶまい。

探すのではなく溢れ出る言葉を

お腹がすいたのかもわからず、眠たいのかもわからず、頭が痛いのかもわからず、風呂に入りたいのかも、歯を磨きたいのかもわからず、歩きたいのかも走りたいのかも、歌いたいのかも泣きたいのかもわからず、戸惑って言葉を探す。自分が今何を欲しているのかを説明してくれる言葉を探す。心の中を素手でまさぐり、どこかに閉じられた弁があって、そこに少し触れてやるだけで弁が緩まりその僅かな隙間から無限の言葉があふれ出てそれは決して止めることの出来ない潮流となって僕をどこか素敵なところまで押し流してくれるのではないかと、僅かな期待を寄せて静穏な、心の中は踏み荒らされる。溢れ出るはずの何かを求めて彷徨う自らの手によって荒廃した心の中を少し覗くと悲しい気分になるけれど、溢れ出る涙はどこにもない。溢れ出る言葉はどこにもなくて、探し出されたのではなくまるで捏造されたに等しい言葉の羅列がこれであるそうだ。

2015年4月2日木曜日

隣の熊は今日も青い。

熊になれやしないかと思う。ただし熊にも弱点はある。銃弾である。もしも熊になれたとしても、銃弾を喰らってはひとたまりも無い。銃があまりにも強すぎるが故に、熊になってもなんんお意味もない。銃弾で傷つくことの無い熊になればほとんど全ての問題は解決するけれど、それはもう熊ではない。銃弾で傷つかないというだけのものである。銃弾で傷つかないだけならば簡単だ。隣の熊は今日も青い。

2015年4月1日水曜日

4月は心を躍らせて

4月が来てまるで何かが新しくなったような気がするけれど、何も変わらない。どうでもいいものや、どうでもいいことを変えるのは簡単だけれど、本当に変えたいことを変えることは出来ない。現実は重く、春は重く、瞼もまた重く、決して変わらないものだけが僕の上に重くのし掛かる。海から逃れようとしても、潮はもの凄い勢いで満ちて、一面の桜の花びらでピンクに染まった海水で僕は濡れていく。月が落ちればいつか引くと信じていた海は、月ではなく自らの悲しみと苦しさに引き寄せられて押し寄せていたものであり、見渡す限りを埋め尽くすその勢いは月が地球を何度回っても止まらずに、燃えるように逃げ惑いながら、僕は溺れて死んでいく。