2004年11月19日金曜日

スクール水着が似合う女学生



一行も書かぬ時点所で、もっと低俗でない表題にするべきだったと深く後悔する。



とりあえず、そんな思いはどうでもよい。
当面の悩みは、コメントに対するコメント建設予定地にコメントがいっぱいついていて、コメントに対するコメント建設予定地についたコメントには全てコメントすると宣言してしまった手前、寝る前にコメント建設地についたコメントに対するコメントをなんとかしてひりだそうと努力していると、寝るに寝られなくなってしまったので、自棄になってブログを投稿してみようと思い立つも、そのようなメンタルではまともなブログを投稿出来るはずが無いと自嘲して笑い悩むも、まともなブログで無い真性引き篭もりにブログを投稿するに当たり、最も相応しい精神状態であると判断してブログを投稿するに至る。駆けているとミシン目が太ももを擦って縫い破る。


大昔、というわけではないのだけれど、コメントの波に押し流された遥か彼方のコメントによると、スクール水着の似合う女学生を好いておったフェチがおったそうな。変態だ。まさか、あのようなものが期待してくれているような読み手を持っているとは思いもよらなかった。

一度などは、自分で読者登録をしようとして、
「不正な読者です」
と罵倒されたりもした。
僕が書く文章における最大にして唯一の理解者であり、読者であるのは僕自身であろうに!と嘆きつつ、ふざけるな!と、嘆いた。
しかしながら、そう言われてみて気がついたのであるが、自らの書く文章を不正なく読む事など出来ぬわけで、不正といえば不正であるかと納得し、なるほど、と頷いてみたりもした。

スクール水着の似合う女学生に関しては、需要を読めなかったスクール水着の似合う女学生自身にも責任があるし、1日1時間ほどを割いてしまうのはもったいないというぼく自身の心理もあったし、アメーバブログに対する嫌悪感と敗北感もあった。ここまでは、スクール水着が似合う女学生を知らない人間にとってはまったく無意味で支離滅裂で、台風に屋根を飛ばされた体育館のような文章であり、ここからがスクール水着が似合う女学生を知らない人間にとっても、とても重要な意味を持ち、支離滅裂な台風に屋根を飛ばされた屋外プールのような文章になるものと思われる。


そのような事を書いていると、スクール水着の似合う女学生はスクール水着が似合う女学生であるという事に価値を見出しているのであろうかと悩むに至る。

スクール水着の似合う女学生はスクール水着が似合っていると思っているかどうかはかなり疑わしい。スクール水着が似合っているかどうか、というものを判断するのは一部のスクール水着の似合う女学生愛好家であり、そのような人々はスクール水着の似合う女学生との接点を持たない。

となると、スクール水着の似合う女学生がスクール水着の似合う女学生である事に価値を見出せる機会は一生訪れず、スクール水着が似合う女学生にスクール水着が似合う女学生としての正当な評価を与える事の出来る一部好事家のみがその価値を知りうる。


僕は過去にスクール水着が似合う女学生をやっていたのであるが、今は女学生ではなくなってしまったので、僕はスクール水着に価値を見出せないスクール水着であり、スクール水着に価値を見出す事の出来る好事家、あるいはスクール水着に価値を見出せない健康的で朗らかな青少年のみが、スクール水着に対して客観的で正当な評価を下せるのであろう、と、スクール水着はかく語りき。