2004年11月16日火曜日

あなたは何を信じますか?



藤沢生活さんのトラックバックを読んで、NPOは宗教であると思うに至る。
ボランティアは善行であり、社会貢献は善行、正義、善行。
宗教だ。
坊主はベンツを車庫に隠してカブに乗るし、坊主の妻は緑色の指輪をする。

ベンツを車庫に隠してカブに乗ってはいけないという決まりは無いし、妻に緑の指輪を買ってはいけないという決まりもない。
そのように一部NPOの関係者が私腹を肥やしている事がNPO自体の信頼を落としているからといって、法で何かを出来るわけではない。私腹を肥やすな、などというものを法で定める事は出来ない。また、他の仕事をすれば大金を手に入れられるような能力を持った人間にNPO活動をさせるには、大金が必要となって当然である。

うまく書けなかった。困った。余裕があれば後で加筆修正します、と書きたいのだけれど無理だ。身の丈にあったブログを書こう。書けぬものは書けぬし、まとめられないものはまとめられない。それだけのバックボーンを持たない。僕は無知をひけらかしてぐだぐだを書けばよいし、そうするべきなのだ。


自分の行動により、なにかしらがよくなると信じる。
何かを信じるという事は物凄く幸せなのだ。

大学に行けば素晴らしい大学生活が待っていると信じる受験生は幸せであるし、それを信じられずに疑いを抱いてしまっている受験生は不幸せである。

恋人は今も自分を見てくれていると信じている人は幸せであるし、恋人が他の人を見ているのではないかと疑いを抱いてしまっている人は不幸せである。

宗教こそが自分を救ってくれていると信じている熱心な信者はそう信じる事自体が救いであり、幸せそのものである。

輝かしい未来が待っていると信じて労働している労働者は幸せであるし、そうでない労働者は、労働という点だけを取り出せば不幸であるといえる。

おいしいものを食べた、よろしくやった、叩きのめして勝った、鹿を撃った、などという事は快楽を招きこそすれ、それが幸せに繋がるとは限らない。

美食は時として人を破滅に導くし、恋だ愛だなどといったものは言うに及ばず。
勝者、受験戦争の勝者、就職戦争の勝者、誰もがうらやむ大金を掴んだ社会的勝者が幸せであるかといえば、それも違う。幸せである人もいるし、幸せでない人もいる。

幸せである人は自分の手に入れたもの、あるいは手に入れていないものをひたむきに信じているのである。幸せであると信じているから幸せなのである。

夢を信じている人間は何一つ手にしていなくても幸せの絶頂にあるし、夢、つまりは未来を疑ってしまった人間はとても不幸だ。
それに加えて現在と過去までをも疑ってしまうと、もう目も当てられぬ。

つまり、幸せになりたいと願うなら、何かを信じればいいのである。
とても簡単な事だ。

なんでもよい。
イエスキリストでも、ロックンロールスターになった5年後の自分の姿でも、片思いの人との未来でもよいし、自分は天才だと信じるのもよいし、ナポレオンの生まれ変わりであると信じるのも、またよいであろう。
なにかを疑いを抱くことなく信じていれば、幸せなのだ。


まことに残念な事に、今の僕には何一つ信じられるものはない。
自分自身の過去における正しさなどとうものは疑い以外の何者かを抱いて見られるものではないし、信じられる未来など当然存在しない。
では現在はというと、これも疑われて然り。
つま先からつま先までを疑っているのである。

幸せになるには、信じられるものを見つけねばならぬのだが、今の僕には何も無い。見渡す限りの嫌疑がある。
それだけ。

なにより、幸せというものを信じられない。
幸せになりたいとまったく思わない。
吹奏楽部の女学生のクラブ活動が終わるのを待ち、「持つよ」などと声をかけては牛歩で夕暮れを進み、帰宅してはハンバーグの横に並ぶバターで炒められた緑色の細長い豆を食べながら「カレーがいいって言ったのに~」などと不平不満を漏らし、「明日作るから」などという返答を聞きながら友人からのメールを受信してそれに左手一本で返事を書き、「食事中なんだから!」などと小言を「うっせー」などと回避して、テレビではクイズミリオネアなどを見ながら「出てる人って馬鹿ばっかだなー。オレが出たら絶対800万は取れるよ」などと兄弟と戯れてから、ONE PEACE、いや、デスノート、ああ、グラップラーバキでも、まあなんでもよいのだが一般大衆受けをしている少年漫画などを寝転がって読み、清潔なシーツで眠るなどといった生活を送りたいとは思わない。それ以外の全てのパターンも、まったく思わない。


バーテンダーの振るひょうたん型の鉄器の中にいるように、飛び交う氷に身を砕かれ、粉々になって、「ああ失敗だ」などとキッチンシンクに捨てられて下水道に達してはどぶねずみの小便となって生きればよいし、そうするべきであると信じている。


結局のところ、僕は不幸せを信じている。
実際の所はそうでないのだけれど、そうだという事にして自分を納得させている。幸せであると感じる事こそが不幸せであり、不幸せであると信じ続ける事こそが幸せなのだ。
ああ、なんと汚らわしい。不誠実で不潔で、醜く穢れきっている。卑屈偏狭の全てだ。その嫌悪感自体が不幸せだ。卑怯者めが。
つまり、今の僕は幸福の絶頂にいる。
自分自身を信じきっている。
とても満たされている。







あなたは幸せですか?