2004年11月20日土曜日

日曜日の神様



火曜日と言われて真っ先に思い出すものは、思い出すものは、

火曜日に思い出など無い。
火曜日などという平凡な曜日に、何かしらの思い出を持つ人間などいないだろう。せいぜい、算盤の日、とか、ドラゴンボールの日、とかその程度ではないか。
僕は算盤ともドラゴンボールとも無縁の生活を送ってきたので、火曜日に対するブログを投稿しようと思い立ったところで、何一つ書けないという事になってしまう。


では、水曜日は、となると、これまた何も無い。
火曜日と水曜日の違いなど、散髪屋さんが営業しているか営業していないか程度の違いしか無い。そのような事は僕にとっては重要ではない。僕にとっての散髪屋さんとは僕自身だ。僕は休まない。正確には、その逆であるのだけれど、ここで書くに相応しい単語を繋げて表現するとすれば、僕は休まない。僕は休まない。


曜日というものに思いいれのある人間は少ないだろう。
月、火、水、木、金、すくなくとも、ここまでは。


「あんたは間違ってる!一週間は日曜日から始まるんだよ。」
そうかもしれない。
それが正解なのかもしれない。
週の始めに神様に感謝する。
そんなものは信じない。
そのようなものは熱心な信徒だけが行えばいい。
ビルローパーに懐疑心を抱くような不信心者には関係無い。



では、どうして一週間は月曜日から始まるものであり、火曜日から始まるものではないのかとなると、月曜日から金曜日まで、というのが世間一般では労働期間であり、曜日、というものは労働スケジュール管理に用いられる道具と化しているからなのだろう。


月曜日は労働。
火曜日は労働。
水曜日は労働。
木曜日は労働。
金曜日は労働。
土曜日はまちまち。
日曜日は休み。

書いたところで、これが世間というものかと少し唖然とする。


引き篭もりの中の引き篭もり、真性引き篭もりという人種にとっての一週間とは、そのようなものではない。だいたい、引き篭もっているからして労働などというものも、休みなどというものもなく、もちろん、まちまちもタムタムもチャムチャムも無い。

労働も休みも無いのだけれど、日曜日というものは存在する。
日曜日というものは明らかに世界中の空気が違う。
労働という重圧から開放されたひと時の幸せを世界全体が謳歌している。

その陽気さが僕にはとてつもなく重い。
その重さを受けて、血という血が糊の佃煮のようになる。

呼吸をするのにも苦心しながら埃まみれのキーボードを叩いていると、僕が日曜日というものの陽気さを享受する日は一生来ぬのであろうとの確信を持ち、この重さから開放される事など無いのであろうと思う。
そこで、ふと考える。


神にとっての日曜日とは何なのであろうかと。
世界は日曜日という日に、一斉に声をあらげて神に感謝する。

声をあらげるのかどうかは知らぬが、とにかくキリスト教徒というものはおそらく、日曜日が来ると一斉に神に感謝する。キリスト教徒などというものは大体からして、マクドナルドとかケンタッキーフライドチキンとか、そのようなジャンクフードをトマトケチャップで流しこんで満足しているようないい加減な人種である。
そのような一般的キリスト教徒が神に感謝するのは、下痢と便秘が過ぎ去った時くらいで、あとの全ては日曜日という事になるのであろう。

とすると、下痢と便秘の時のみに神様に
「ごめんなさいごめんなさい。真人間になるから許してください」
と心の底から懇願する僕も潜在的にはキリスト教徒なのではないかという疑いが浮上するも、無理やり東京湾に沈めて続きを書く。



世界中のキリスト教徒というキリスト教徒に感謝されるというのはどのような気分なのであろうか。「ありがとうごぜーますだ神様~」などと感謝しながらも、大抵の輩はそれに伴い「給料上げてくだせ~神さま~」などというお門違いな祈りを投げかけているのであろう。
それらを一身に受け止めて、神という男はどのような気持ちで日曜日を捕らえているのであろうか。

もちろん世界には不心得者もいて、朝からパンくずをまぶした脂ぎったサラダを食べながらよろしくやっているような人もいるのだけれど、キリスト教徒というキリスト教徒の声に押しつぶされそうな神という男は、日曜日だからといって自分自身に声を投げかける事の無い、不信心者の存在自体に感謝しているのではなかろうか。

日曜日が訪れる度に祈りという祈りに押しつぶされて、神なる男に流れる血という血が糊の佃煮のようになっているのではなかろうか。その重圧たるや。


ああ、なんだ。
神とはその程度の男か。
イエスキリストも所詮は人だ。
たいした事など無い。

真性引き篭もりとたいして違わぬではないか。
労働もせず、学業にもつかず、人々の願いを叶える事も無い。
はは、なんだ神。
おい、神。
神よ。

働かず、
学ばず、
偉そうに、偉そうに。
真性引き篭もりめ。

革命家にでもなったつもりか。
「全知全能」
などとお前は思い上がっているようだが、
世間一般ではおまえのような男の事をなんと言うのか知っておるか?
おい、神。

NEETだ。
ニート。


おい、ニートよ。
本日のアルビトロはロペスニートさんです。
ニートよ。
神よ。


HAHAHAHAHA。
なんだかとても親近感が沸いてきた。
神もどこかで「神」とかいうブログを立ち上げて、毎日毎日、内容の無いキーボードを叩いておるのだろう。きっとそうだ。
いや、神であるからして、キーボードなど叩かぬとも、ブログくらいは書けるのであろう。例え人のささやかな願いを叶える事すら出来ぬ無能極まりない神というニートでも、ブログくらいは書けるであろう。

神か。
神も真性引き篭もりか。
しかし、あのような男と一緒にされたくはない。
僕は真性引き篭もりであり、神などではない。
下品でもなければ、不誠実でもない。
真性引き篭もりである。







ハァ、吐く息全てがため息に化ける。
深呼吸一つ、それもため息に化ける。


気分が重い。
日曜日が憎い。
世界中の日曜という日曜が他の曜日に攻め滅ぼされればよいのに。
月月火水木金金でよいのに。
しかし、もしそうなるとなにがなんでも休日というのを求める、ある意味では真性引き篭もりという人種と同じメンタルを持つ健康的で労働により世界を支える誠実で評価に値する人々は、火曜日、あるいは水曜日に日曜日としての役割を果たせと押し付けて、朝から仮面ライダーを見てダイエーで新米を買いつけるのであろう。ソフトクリームを舐めながら。



ここまで書いた所で、今日は土曜日であると気がついた。
ああ、土曜日か。
それならいいや、と少し気が軽くなり、今日が日曜日で無い事を神に感謝したのであるが、今から僕は眠るわけであり、目を覚ませばそこは日曜日。
神よ、ああ、神よ。
主なる神よ、イエスキリストよ。
願わくば僕にもうひとたびの月曜日を。


「27番のお客様~27番のお客様~」
あ、月曜日お願いします。
「えーっと、月曜日の方は今ちょっとォ……」
あ、じゃあ、
「となるとえー、少々お待ち下さい、
 ショショ、はい。お掛けになって(笑)
 お待た せしましたあ。
 お客様!お客様、日曜日になりますがよろしいでしょうか?」
あ、じゃあ、それで。