2004年11月24日水曜日

季節外れの味噌トマト



冷蔵庫に、トマトがあった。
季節外れのトマトである。
今の季節に相応しくない。
朝食にも相応しくない。
賞味期限を1日過ぎた牛乳を飲み干してから、少し考えた。


11月末に最も相応しい朝食というのはどのようなものなんだろう。
カレーに相応しい調味料、とか、カキフライに相応しい調味料、といったような所であれば、既に結論は出ている。
しかしながら、11月末に最も相応しい朝食というのは、未だに誰1人として具体的に提示できてはいない。


そこで、やはりここは僕が11月末に相応しい朝食というものを決定せねばならぬと強く思い、今から11月末に相応しい朝食を発表するのである。

11月といえば、やはり柿だ。
柿以外には考えられぬ。
よって、メインは柿だ。
渋柿にはまだ少し早いので、冷凍庫で一晩寝かせてから解凍してジュクジュクになった甘い甘い甘柿だ。あれは物凄くおいしい。縦に筋を引く繊維がゼラチンのようになって、プニプニとしていて、甘さをまとって口の中で暴れる。種の周りの甘みの溜まり場などは新手のグミだ。ぷにぷにだ。甘柿だ。甘柿こそが11月に相応しい。

メインディッシュは決まった。
甘柿だ。


しかし、困った。
甘柿に相応しい副菜というものがまったく浮かばない。
季節柄、という事で大根はどうかと思い悩んではみたものの、甘柿に相応しい大根料理というものが見つからない。白菜はどうだ、白菜も駄目だ。となると、と思い浮かんだのが甘柿だ。冷凍庫で一晩寝かせてから解凍してジュクジュクになった甘い甘い甘柿だ。

よって、11月末に最も相応しい朝食は冷凍庫で一晩寝かせてから解凍してジュクジュクになった甘い甘い甘柿と、冷凍庫で一晩寝かせてから解凍してジュクジュクになった甘い甘い甘柿の組み合わせ、という事になった。

なった、のであるが、冷蔵庫にあるのは柿ではなくてトマトだった。
そこで、トマトを冷凍庫で一晩寝かせてから解凍してジュクジュクにして食べてみようかとも思ったのだけれど、僕が求めているのは明日の昼食ではなく、今日の朝食。
これでは埒が明かぬと、トマトを朝食として食べる事にした。

ついでにトーストを焼こうかと思ったのだけれど、トーストに相応しい飲料である賞味期限を1日過ぎた牛乳を飲み干してしまった事に気がつき、少し後悔してから諦めた。

そこで、また悩む。
季節外れのトマトに相応しい調味料とは何であろうかと。
「塩?」
とまず思ったのだけれど、これは少し違う。
トマトに塩は夏の食べ物であり、11月末には相応しくない。だいたい、塩にトマトは似合わない。スイカも駄目だ。塩に相応しいのは力士である。

そこで味噌が目に付いた。
これだ。
大豆製蛋白だ。発酵食品だ。畑の大豆だ。いや、畑の味噌か?いや、畑の、畑の、豆?畑の豆じゃあ、範囲が広すぎる、それではえんどう豆も鞘いんげんも枝豆も大豆になってしまうではないか、おかしい。大豆は、それだ。畑の大豆だ。いや、畑の味噌だ。いや、畑の、なんだ?畑のキャビアだ。いや、それはなんか違うプチプチしたあんまりおいしくないやつだ。畑の、うん、あれだ。大豆は大豆であり、味噌は味噌なのだから、畑の大豆は畑の大豆であり、畑の味噌は畑の味噌なのだ。いや、畑に味噌というのはおかしい。味噌は冷蔵庫だ。冷蔵庫の味噌だ。凍りかけた愛だ。


僕はトマトと味噌を朝食に選んだ。選んだんだ。
もう畑などはどうでもよい。
とにかく、今僕は味噌トマトにかぶりつきながら朝一番のブログを投稿しているのだけれど、これはブログを投稿しながら食べるには相応しくないようだ。キーボードに物凄く赤い汁。少し痒い。

このようなブログを投稿してよいのだろうか。
味噌トマトを食べながら投稿するブログの内容というのは、どのようなものが最も相応しいのだろうか。もっと味噌トマトの持つ潜在能力を活かす方向でのブログ投稿というものが存在するのではなかろうか。例えば、味噌トマトから読むウクライナ情勢、とか。

いや、そのようなものは僕に相応しくない。
例え、味噌トマトに最も相応しい題材がウクライナ情勢であったとしても、僕は身の丈にあったブログを投稿するべきであり、ウクライナ情勢などを書くべきではない。

相応しくないブログは書くべきではないし、相応しくない歌は歌うべきではない。相応しい夢を見るべきであるし、相応しい朝食を取るべきであり、相応しく生きるべきだ。
その点では、11月末の味噌トマトというものは真性引き篭もりにとって最も相応しい朝食であるな、と少し優しい気分になり、心が落ち着く。


相応しくならねばならぬという思いは、生きる力の源である。
警察官に相応しい規律を、と強く自らに訓ずるものは警察官に相応しい人間になれるであろうし、教育者に相応しい佇まいを、と強く自らに訓じる教師は恩師となり得る資格を得るであろう。

では、真性引き篭もりが自訓する事としては、何が最も相応しいのであろうか。それさえ見つけられれば強い生きる力の源を手に入れられるであろう。真性引き篭もりから、真・真性引き篭もりくらいまで進化出来る。おそらくは。

つまり、真性引き篭もりに最も相応しい自訓を、相応しい規範を見つける事が今の僕に求められている課題であるのだけれど、それが思い浮かばない。

真性引き篭もりに最も相応しい事というものが思い浮かばない。
もし僕が労働者であれば、サービス残業をとか、会社上司になんとかを、などとあっさりと片が付くし、もし僕がアイルランド人であれば、じゃがいもとか、大陸横断鉄道を、とか色々ある。しかしながら僕はサラリーマンでもなくアイルランド人でもない、真性引き篭もりであるからして、そのようなお手軽で身近な自訓は存在しない。


「真性引き篭もりに相応しい真性引き篭もりになるには」
困った。
既に真性引き篭もりだし。

これを少し書き換えて、僕に相応しい僕にする、などとしてしまえば、いくらでも思い浮かぶのであるが、それでは自戒が強すぎて動揺してしまい、食後のひと時がかき乱されるので駄目だ。やはり、僕は真性引き篭もりに相応しい真性引き篭もりになるべきであり、真性引き篭もりに相応しい真性引き篭もりにならねばならぬと思う。

相応しく生きねばならぬ。
身分相応というものを。