2004年12月17日金曜日



冬があまりに冷たいので、ズボンに腕を差し込んでうずくまっていると、なんだって成し遂げられそうな気がしてきたので何かをしようと思い立って立ち上がると、何一つ為し遂げられないような気がしてきたので、うずくまってズボンに腕を差し入れた。
すると、なんだって為し遂げられそうな気がしてきたので立ち上がってうずくまる。

起きているときは、今横になれば瞬く間に眠れるだろうと思えるくらいに眠たいのだけれど、眠ろうと横になっている時は永遠に起きていられそうな気がする。ブログを書いている時は何も書けないと思えるし、ブログを書いていない時はなんだって書けるように思える。食べ物が目の前にあると、一生何も食べなくても生きていけるのではないかと錯覚するくらいに食欲が無いのだけれど、目の前から食べ物がなくなると、例えそれが食後2分の時間帯であっても、底なしの胃袋を手に入れた食欲の権化と化したように思える。

行っていると行えぬと思い、
行わずにいると行えると思う。

なにからなにまでこの繰り返しであり、疲れた。と書くと疲れてなどいない、希望に満ち溢れている素晴らしい人生ではないかと思え、素晴らしいと書くと疲れたと思える。

もし僕があまのじゃくであるならば、あまのじゃくとしか付き合いの無いあまのじゃくはあまのじゃくの言う事しか耳に出来ず、それにあまのじゃくしようとするあまのじゃくはあまのじゃくの逆を行く事となってしまい、あまのじゃくはあまのじゃくが出来ずに困る、といったくだらない悲喜劇にでもなるのだろうけれど、僕は残念ながら人間であり、そのような~おしまい~は訪れぬわけで、ただのっぺりとこの調子が続くのであろう。

結局の所、踊らずにいると踊れるように思え、歩かずにいると歩けるように思えるのは、僕が人生というものを諦めておらず、あくなき希望を今現在、そしてこれからというものに抱いているからである。

ディアブロ3とか、ドラゴンクエスト8とか、テレビのある生活とか、木綿の露出していない布団とか、平たい干し柿とか、ビセンテカルデロンとか、飛行機とか新幹線とか自転車とか、オレンジ色の光を眺めながら街灯の下を歩き、「風情があるね」あるいは「悪趣味だね」などと適当な言葉を交わしながらケンタッキーフライドチキンの行列を見ては少し笑って帰宅して鍋焼きうどんをこしらえて食べたり、といったようなありふれた日常、あるいは屏風の虎を手に入れる事が出来る日が来ると頑なに信じているわけであり、未来、将来、前途洋洋、栄光に包まれた光り輝く日々が目前に灯っては灯り、灯っては灯りする中で僕はそれらに生きる喜びと底なしの希望を見出す。光の方へと歩こうと思い、歩けると信じ、「大丈夫、まだ間に合う」とモスクワ五輪へのトレーニングを開始する。

真性引き篭もりhankakueisuu氏を非常によく知る真性引き篭もりhankakueisuuとしては、もっと実用的で便利で手近にある絶望とかいうものに取り入って生きるべきだと過去から未来に至るまで助言をし続けてきたのだけれど、残念ながら僕は聞く耳を持たず、希望に満ち溢れた青春時代を謳歌しているのである。

その、僕自身が希望に満ち溢れているという事実だけが、聞く耳を持たぬ僕に絶望をもたらしてくれるのである。