2005年1月12日水曜日

生きる喜び。



生きる喜び、などという言葉はまったくもって馬鹿げたものだ。
生きるとは喜びそのものであり、喜びとは生きる事そのものである。

起きては顔を洗い喜び、椅子を引いて味噌汁を啜り喜び、鏡を見て瞳が濁っていないのを確認して喜ぶ。もちろん、その喜びを感じない事もあるのだろうけれど、それは喜びが存在しないのではなく、人間の鈍感さが悪いのである。人は往々にして繊細さを失くして繊細さを自称する。生きる喜びを感じない人間とは、その鈍感さの頂点に立つ存在であり、不幸せであると言える。

「ただいま」と言っては「ただいま」を聞いて喜び、手を洗い顔を洗って喜び、椅子を引いて味噌汁を啜り喜び、鏡を見て瞳が濁っていないのを確認して喜び、布団に入る。温もりが肌を介して布団に伝わりそれが肌へと跳ねっ返ってきたのを受け止めて喜び、生暖かさの中でまどろんで喜ぶ。
つまるところ、人間の一日は喜びに満ちているわけである。

僕は真性引き篭もりであるからして、そのような所謂一般的なものとは無縁であるのだけれど、その一日が喜びに満ち溢れたものであるという点については一般人とまったく同じである。
起きては童の嬌声に眠りを妨げられなかった事に喜び、頭痛薬を飲む程の頭痛が来ていない事に喜び、DOTA allstarsを卒業した悲しみに喜び、パソコンを立ち上げては行き着けのブログが更新され、そのブログ主の人生が不平不満に満ち溢れているものである事を確認して不幸の蜜蝋をしゃぶって半日喜ぶ。また、パソコンのファンから漂っていた金属質な異音が突如収まった事に喜び、塊魂のデモムービーを見てそれほど酔わなかった事に喜び、エイジオブエンパイアのスクリーンショットを嘗め回して喜ぶ。
目覚めて数時間しか経過していないのに深刻な眠気が襲ってきた事に喜び、パソコンの電源を落として訪れた静寂に喜び、硬く泡立てたホイップクリームの表面のようにびりびりに破れた木綿の敷布団にうまく包まる事が出来たという少しの、ほんの少しの暖かさに喜ぶ。そうして、いつもよりほんの少し悪いだけの未来を思い描けた事に喜ぶ。

生きるとは喜びであり、人生とはその喜びの積み重ねである。
一言で申し上げると、人生は加算。
喜びと喜びの足し算である。

人生と人生が交差した際などは時として乗算になってしまうくらいの、猛烈な足し算である。

出合って喜び、生まれて喜び、育って喜び、就学に、また卒業に喜ぶ。やがて出会いて喜び、生まれて喜び、育って喜び、就学に、また卒業に喜ぶ。やがて出会いて喜び、生まれて喜び、育って喜び、就学に、また卒業に喜び、就職に喜び、やがては退職に喜ぶ。それ即ち人生であり、喜びの際限なき鼠算である。

「喜べぬ日常だってあるだろう」
といった反論が存在する事は承知している。
しかし、それはそれである。

全知全能に近いかと思われるくらいの恐るべき才覚を持った人間であっても、それを喜びであると理解出来ぬくらいに人生とは複雑なものだ、というだけの事である。
それは喜びでないから不幸なのではなく、喜びであると認識できぬから不幸なのである。
国を失いカルフォルニアへ向かう道すがら喜びを認識するのは困難である。しかし、しかしながら人は生きておらねば挫折も苦悩も味わえぬわけであり、それらマーブル状のドロドロの全てが喜びの積み重ね、人生の足し算であり、やがて一段落、あるいは終止符を打つに至り「あれは、喜びであった」と回顧するものである。あるいは、その段に及んでも人生、生きるという事に対する的確な評価を下せずに「これは、絶望であった」などと、回顧するものである。
どちらにしろ、生きるとは喜びであるという事実が揺らぐ事は無い。



その足し算の一要素一要素、人の一生における一秒一秒が喜び、あるいはやがて喜びであり、人生とは一歩一歩の積み重ね、足し算であると言える。

「俺には何も無い」
などと絶望している男であっても、その日、その一瞬、思い立ったその時から一歩一歩を踏み固めて歩き、日に日を積み重ねて行けば、やがては頂に立って「絶景かな」と喜びを噛締める事の出来る時が訪れるわけであり、人生とは緩やかで生暖かい、非常にEZで簡単なものである。
つまりは、つまり。重ねて。
生きるとは喜びであり、人生とは喜びの積み重ね、猛烈な足し算である。



しかし。
足し算である人生というものに、たった一つだけ引き算が存在する。
それは信頼である。

人が生まれておぎゃあと一言泣いた段階では、誰1人として疑うものはいない。器にすりきり満杯の信頼が注がれた状態である。
人はその信頼を少しずつ、少しずつ失っていく。
速く駆ければ駆ける程、こぼれる水は多くなり、やがて涸れはて干乾びたその器には、何を注いでも何を注いでも信頼というものが戻る事は無い。かといって、立ち止まったまま器を大事に抱えていては、喜びを積み重ねる事は出来ない。

一つの言葉で人は人を失うし、一夜の咎で恋は愛を失う。メグミルクは永遠に雪印であるし、タイ米は永遠にインディカ米であり、三菱は永遠に火の車である。一度失われた信頼というものは二度と戻らないのである。

つまり、人が生きる上で最も重要なのは信頼を失わぬ事である。
信頼を失わずにしっかりと足し算を繰り返せば、やがては全て思いのままに、どこにだってたどり着けるのである。


なるほど、人生とは喜びに満ち溢れており、今日、今宵からは僕は信頼を少しも失わぬように、やろうと決めた事はしっかりとやると決めた。

ブログも毎日書くし、三食しっかり食べるし、目が覚めたその瞬間に起き上がるし、PCの電源だってすぐ入れるし、DOTA allsatarsなんて綺麗さっぱり忘れるし、ゲームサイトのウェブサーフィンなんてしないし、ゲームなんてしないし、机に散乱したお茶碗とかちゃんと洗うし、真夜中に昼間こっそり部屋に持ち込んでおいたフルーツグラノーラを飲み物無しで齧ったりしないし、朝起きるし、夜寝るし、もう一度全部最初からやり直すし、一歩一歩踏みしめて積み重ねる。
もう、誰1人として疑いを抱かぬ位の完璧な人間になる!
完全無欠の真性引き篭もりへと進化するのだ。そう決めたのだ。


と、書いてみたのであるが、既にこれまでの少しばかり長く短い日々の積み重ねにおいて、僕は僕の信頼を完全に失ってしまっており、僕が「生きるとは喜びである」などと大声で大上段から書き綴っても、成りすまし電話のオレオレを見るような眼差しが一瞬向けられるだけであり、僕は微動だにせず、「またなにか言ってるよ」と疑いのデフレスパイラルへとその身を投じ、DOTA allsatarsをやりたいやりたいと願い、僕を救ってくれるのはDOTA allsatarsだけであると頑なに信じて、虚ろな目に映るその全てを怨み、疑い疑われて信頼失墜の一歩をマイナスに重ね続けるのである。