2005年1月9日日曜日

諦めた。



パソコンの電源を入れるという事が僕にとってとてつもない重労働であると知ったのは、つい最近、DOTA allsatarsが無くなってからの事である。

あの頃の僕は今思えばスーパーマンのようであった。
僕が目を覚ます寸前にパソコンの電源を入れ、ウインドウズが安定する前にウォークラフト3をダブルクリックしてちぎっては投げ、ちぎっては投げと30時間くらい寝なくてもへっちゃらでkillしまくっていた。物凄く長いロード時間には柔軟やら筋肉やらをやっていたし、時には10人集まるまでの一瞬の間や、死亡して生き返るまでのペナルティタイム中にAlt+Tabで画面を切り替えてブログを書いたりもしていた。
それが今では、横になった体を縦にするだけで何時間もかかる。

「父は退職と同時に一気に老け込み・・・」
などという相談文を目にした事があるが、それかもしれない。
塩風に触られた自転車は瞬く間に錆付くのとは正反対に、人間は風に触れていないと一気に錆付く。自らで風を興せるくらいの強い人ならばなんともないのだけれど、僕はあいにくそこまで強くは無いし、ひょうたんも持っていない。

都合の悪い風から身を隠し、都合の良い風のみを取捨選択しぬるま湯としての風車を回し続けるのが真性引き篭もりというものである。
その取捨選択した末の都合の良い風をも断ち切ってしまった真性引き篭もりというのは、何へとなるのだろうか。DOTA allstarsが都合の良いものであった、というのはかなり事実と違うのだけれど。

昔の僕が生ぬるい風というものを投げ捨てる時は、突き刺し覆い被すような潮風があったのだけれど、今はそれもない。無風、である。


その無風の中で、僕は立ち上がる事すら出来ず伏せている。頭痛薬はあっても水は無いし、水はあっても飲み込む気力が無い。額の裏のもやもやを抱えたままで目を閉じると、苦痛の中に時間が飲み込まれて粉々に砕けて消えて行く。
今ではそれが心地よい。

何かをしたいのだけれど、頭痛と吐き気のせいで出来ないんだ。
これは僕が悪いんじゃない、僕が悪いんじゃない。
頭痛のせいだ、この頭痛さえ冷めれば僕はやれる。
やれる。


そう信じて歯を食いしばる。
頭痛がそこにいる限りパソコンの電源を入れなくてもいいし、DOTA allstarsを再インストールしたいという衝動に呼吸を止められる事も無い。よろしくやりたいとも思わないし、寂しいとも思わない。罪悪感も虚しさも悲しさも、痛みの全てを感じない。謝罪の言葉も頭に無い。痛みがそこにあるうちは。僕がやれないのは頭痛のせいで、それさえ冷めれば僕はやれる。
やれる。


頭痛は冷めた。
まだ左の耳の北北東には少し残っているけれど、こんなのは頭痛のうちに入らない。そして、わかった事が一つ。
僕はやれない。
何一つ。

物凄く体が重たかったのは頭痛のせいではなく、物凄く体が重いんだ。心は合金製のとりもちのように押しようも引きようもなく、底なし沼の底から動こうとしない。指が動かないのや、足首から先の感覚が無いのも、寒さや正座のせいではなく、僕のせいだ。

駄目な奴は何をしても駄目、というのがあるが、あれは嘘だ。
駄目な奴は何も出来ない。
あるいは、駄目な奴よりもっと下の奴は何も出来ない。
真性引き篭もり、それ、僕。


けれども、僕はまた頭痛に押されて目を閉じる。
そして、こう思うんだ。
「頭痛さえ冷めれば僕はやれる」って。
そう、本当はやれるんだよ。
ブログなんて40秒で書けるし、趣味だって、娯楽だって、労働だって、学業だって、友達との談笑だって、よろしくだってなんだって、無呼吸で峠を駆け上って無寄航で世界をぐるり。昨日まではちょっと駄目だったけれど、今日からはやれるんだ。JFKが尻尾を巻いて逃げ出すくらいに。
物凄くやれるんだ。そして、立ち上がって沈んでいくんだ。

沈みきって、またやれるって思うんだ。
用水路のおたまじゃくしのように、沈んでは浮き、浮いては沈み、沈んでは浮くんだ。昨日までは少ししくじった不本意なものだったけれど、それは昨日までの僕が少し愚かだったからで、今はもう、なんだって。


駄目だ。
ブログもまともに書けない。
もう、諦めた。諦めた。

諦める事を諦めた。
僕は諦めない。
そう決めた。
決めなくても、諦められない。
幸せなんて馬鹿げていると思うけれど、僕は幸せになりたい。
人並みを見下して、人並みに憧れてやる。
一生、これから先、ずっとそうだ。
そして僕はきっとやれる。
幸せにも人並みにもなれる。
諦めない。
諦めた。

やるぞ。やれるぞ。起きろ。頑張れ。目覚めよ。駆けよ。行け。進め。立ち上がれ。眠れる獅子よ。ネバーギブアップ。もう駄目だ。