2005年3月18日金曜日

漆の碗



それがどれ程までに馬鹿げている事であるのかは、僕も十分理解している。
けれども真性引き篭もりというものはそもそも馬鹿げている生き物である。
馬鹿げてあるからして、馬鹿げているにお似合いな馬鹿げた投稿を行うのである。

しかしながら、嘘偽りの無い馬鹿げた本心であるし、馬鹿げた願いである。




僕がブログ投稿を行う時は、読める人だけ読んでくれればいい、あるいは誰一人として読んでくれなくても構わないと思いながら投稿ボタンを押しているのだけれど、普段の10倍ものアクセスを頂く中で好き放題やり、ぎりぎりの題材を流れを知らないと読み取れない文章で好き放題書いて投稿ボタンを連打した挙句に、説明を行わずにそれを一段落させるというのは納得がいかないし、不誠実なブロガーである。
よって、そもそもの始まりからをなるだけ丁寧にいつもより少し横暴に書くのである。



ブログサービスに思い入れのあるブロガーはあまりいない。
多くの人が求めるものは軽さであり使いやすさであり、一見客の多さである。

しかし、ごく一部の人はそれ以外の何かを求める。
はてなのあの日の騒動で幾らかの人が逃げた事からわかるように、馬鹿げたそれを求める人というのは確かに存在するのである。そして、僕もその一人である。

僕がブロックブログを選んだ理由は、軽さと誠実さなのである。
軽さというものは失われて久しいのだけれど、残る1つが僕をブロックブログのブロガーで有らしめた拠り所であり理由であったのだ。


だからしてもし、ブロックブログが誠実さに欠くしぺぺぺぺを行ったならば、僕は失望するであろうし、逃げ出したいと思うであろう。事実失望したし、逃げ出したいのだ。






事の始まりはこうだ。

ブロックブログというブログサービスの運営会社の社長である竹内克仁という人間がビッグイシューの佐野という人間に触れられたのをきっかけに、ビッグイシューと提携を行った。


僕はそれを目にして全部調べてから冷静に激昂し失望し落ち込んだのであるけれど、最初に書いた通り、真性引き篭もりとホームレスというのはイオラとヒャダインくらいの違いしかなく、あまりにも問題が近い場所にあるので書くべきではないと思い、ブログ投稿を書くのを思いとどまったのである。
しかし、運悪く予期せぬ事が重なって間違えてついうっかり投稿してしまい、猛省しているのである。けど、いいか。








では、問題のビッグイシューについて書く。

ビッグイシュー社とは、物乞いを物売りへと変化させながら利益を生むという画期的な事業スタイルを成功させた会社であり、ビッグイシュー誌とはホームレスしか販売する事の出来ない、決して店頭に並ぶ事のない雑誌である。

物乞いというものが問題となっている国ではそれは素晴らしい。
しかし、我が国に物乞いを生業としているホームレスは皆無に等しいというデータがあり、我が国では物乞いを物売りに進化させるという英国ビッグイシューの社会的貢献力が発揮される事は無い。



では、日本ビッグイシューが何をし、何であるかという事である。

日本ビッグイシューの成り立ちは、2人の無職が英国へ渡った事に始まる。
帰国した彼女らは、ビッグイシュー誌の編集長と副編集長に納まった。
そしてビッグイシュー社の社長は、副編集長佐野未来の実父佐野章二という人物である。

それは別にどうでもよい。
2人の無職が仕事を見つけ、無職の父は社長になった。
ほんとうに素晴らしいサクセスストーリーであり、僕がどうこう言う事ではない。



問題は、ビッグイシューがどのような商売を行っているのかだ。
それが糞であれば糞であるし、紅であれば紅である。
社会貢献であれば社会貢献であるし、弱者救済であれば弱者救済である。








しかしながら、そのやり口があまりにも汚い。



弱者への同情というものを誌の宣伝の柱としている。
しかし、ビッグイシューが利用しているのは弱者ではなく1日10時間路上に立てるくらいのタフさと若さを持つ青テントである。


「大成功」したとニコニコと笑顔で語っている。
これは、英国の「物乞いが物売りに進化したという大成功」とはまったくの別のもので、毎月10万部の売り上げを確保して社長と編集長と副編集長の食い扶持が不動の物となった事が大成功なのである。「ホームレス、社会貢献、弱者救済」という単語と「大成功」という単語に関連性は無いのだ。成功したのは彼らなのだ。


ホームレスという不可侵性でメディアを利用している。
「弱者」「ホームレス」「社会貢献」という文字を否定的に書けるメディアは存在しない。肯定的に書くしか道の無い事柄というものは日本には多く存在し、ビッグイシューはその報道不可能ながら無敵の強制力を持つ題材に、新たな1ページを追加する事に成功したのである。

デンゼルワシントンがどのようにしてビッグイシュ誌の表紙を飾ったのか。
ブラッドピットがどのようにしてビッグイシュー誌の表紙を飾ったのか。
ミッフィーがどのようにしてビッグイシュー誌の表紙を飾ったのか。
矢井田瞳がどのようにしてビッグイシュー誌の表紙を飾ったのか。
もし僕がブラッドピットであったならば英国ビッグイシューの趣向に賛同して表紙を飾りインタビューを受けたであろうし、ミッフィーであったならばあれだ。わからないね。ウサギの事は。まあ、そうだし。もし僕がデンゼルワシントンであったならば、英国ビッグイシューの趣向に賛同して表紙を飾りインタビューを受けていたであろうし、もし僕が矢井田瞳であったならばまずは服か、え、手鏡か、あれまあ。いや、違うか、あれか、どっちだろう、どうだろう。難しい。これはちょっとなってみないとどうするかはわからないわ。想像もつかない。なってみないと。






さらに、ビッグイシュー日本の主張する
「ホームレスに仕事を与えています」という言葉自体が嘘である。


彼らがホームレスに与えているのは在庫である。
ホームレスに雑誌を買い取らせ、返品不能の生雑誌を路上で売らせるシステムである。

それを指して仕事と呼ぶ事になんの問題も無いと考える人が存在するのは存じている。例えば明日貴方の兄弟から電話がかかってきて、「仕事を得たよベガルタ仙台のスポンサー!」なるほど、それもいいだろう。よかったね。仕事が出来て。さて。



彼ら自身に在庫というリスク、仕入れノルマという責務感を与えて突き動かし、売り子による売り子の勧誘を行わせる無限増殖売り上げ向上システムを仕事と捉えるかどうかは人それぞれであろう。問題が無いと考える人にとってはなんの問題も無い。
「仕事だ!」とやられれば僕は反論する術を持たず、そこを守る事は出来ない。
ただし、誰も使わぬアムウェイもタッパーウェアもうちには有り、一日に40錠も白やら黒やら黄色やらのものを長い時間をかけて飲んでは吐き気を堪えながらドラクエ5をしていたし、猿の茸も緑の苔もプルーンも知っておる身分であるからして、僕はそのやり口に激昂するし否定する。





この問題を書かずにこそっと失望して逃げ出したいを書かずに堪えたのは、1つ間違わなければホームレスになっていたのかもしれぬという恐怖からである。

僕がホームレスにならず、また今後ともなる見込みは0であるのは僕自身に優秀さが足りなかったからであり、もう少しマインドでもう少し労働者でもう少し優秀であったならあば、大吉くらいの確率でホームレスになっていただろう。

自分自身を無言で書ける程に僕は強く無いので、出来れば書きたくなかったし、読みたくなかったので逃げたしたというのが真相である。僕がホームレスにならずに済み、また今後なる可能性が0であるのは僕が弱すぎたからであるし、ホームレスを書けなかった理由も自分自身の弱さであり、僕は軟弱すぎるという事である。



もう少し奥飛騨まで分け入って書くと、もし僕がホームレスになれておったならば、ビッグイシューから完全に無視され、広告材料に使われるか使われないかの瀬戸際を生きていたであろう。
僕は路上に立てる程のストロングは無いし、売れる程のアジリティもなければ、差し伸べられた手を差し伸べられた手であると理解出来る程のインテリジェンスも持たないからだ。
彼らの役に立つ良いホームレス、つまりは保険も補償も法も年金も存在しない無限増殖パートナーとして雑誌を売り続けるだけの能力を持たなかったであろうは僕自身の根源にある軟弱さからして明白である。






少し昔の事である。

エロサイトで朝っぱらからチャットをしていた海外旅行が趣味のアフィリエイターが、クリック募金サイトを立ち上げた。彼は募金が出来ますという名目でアクセスを上げ、「ここをクリックしてください」と出会いサイトとA8netを貼り付けた。

その人は今もなお、ウェブ閲覧者から振り込まれた30万円の協力金を握ったままで引き篭もり、平然とクリック募金サイトで利益を得るを続けている。

僕は彼がやっていた、「嘘と同情で金を集めて抜き取る」というビジネスモデルに激昂して突っ込んだという過去があり、誠実さを求めて選択したブログサービスが提携した有限会社が同じビジネスモデルで利益を得ているのを目にすれば当然激昂するのである。
むしろせねば偽りである。







話をブロックブログに戻す。


ブロックブログ社長竹内克仁はブロガーの文章を読まずに、張られたラベルでそのブロガーを判断するそうである。ラベルで人間の価値が見えると考えるのは、ラベルで判断すべきでないと考える僕の対極の位置にある。


竹内社長は「ホームレス」「弱者救済」「震災募金」「被災者」といったラベルに価値を見出す人間であり、残念な事に僕とは違う。
その便利なラベルの1つとしてビッグイシューと提携したのである。
そのような人々が大勢いるのは募金パークの大成功で目にした所であり、既知である。案外身近にもいたのだなと、そのように思う。

募金パーク高麗和男氏に送ったトラックバックはどこかへ消えた。50送ったトラックバックのうちの30はどこかへ消えた。余丁町散人氏に送ったトラックバックもどこかへ消えた。竹内克仁氏へ送ったトラックバックも同じように、どこかへ消えた。
トラックバックを消す魔法というものがこの世のどこかにあるのだろう。僕の知らない国の僕の知らないインターネットにあるのだろう。案外身近にいたのだなと、そのように思う。





無敵のラベルを持った佐野という人間が竹内克仁に近づいて耳元で囁いたというのが事の始まりであるからして、もうこれは駄目である。人間はラベルを持った人間に近づかれて耳元で囁かれれば必ず転ぶのである。おまえらだってあれだろう。あびる優が全裸で目の前に立てばよろしくやるだろう。それと同じだ違うけど。

僕だって過去に耳元で囁かれて転んだ事はある。
その耳元で囁いた人間は数日後には鉛筆を腹へと刺し込み鞄をサッカーボール代わりに利用してへこんだゴールへ蹴り込むに至ったのだけれど、大人の社会じゃまあ粗方はなあなあに終わるのだろう。綺麗さっぱりなり切れるのなら狡猾な大人というものになりたかったものである。もはや囁く人すらいない。真性引き篭もりとは便利なものだ。
囁いても裏切ってもいないインターネットのスクリプトに裏切られた気分になって夜が明ける。SF世界の向こうの向こう、肉体の粗野な欲求を克服した模範的アルファケンタウリ信者だ。シンダーロゼとよろしくやりたい。




僕は彼とは違い、人間をラベルというものでは判断しない。
人間の正体というものは往々にして本人すらも目視出来ぬ場所に潜んでいるのであり、その在り処が明かされている事というのは極めて稀であると考える。


そもそも、例えばその人がラベルを貼っていた場合にそれはその人ではなく、その人の「こう見られたい、こうありたい」という欲望である。プラダもグッチもシャネルも古着もユニクロも、その人がそのような人間に憧れ、それを姿だけでも演じたいと思うからそのラベルを貼るのだ。
「振られて泣いてばかりです」というラベルの裏にはなにかあり、「全然もてません」というラベルの裏にも何かがあるのだ。なりたい自分を絵に描いたものがラベル看板というものであり、希望を投影する鏡でこそあれ、人間を投影するものではないのだ。好き放題にやれるのだ。


同じように、ブログやウェブサイトにラベルを張るのも、その人がその人の思い浮かべる理想の姿に近づく為であり、それがどれ程までに本人と重なっているかを見極めるのは非常に難しく、全てを呼んでよくよく観察せねば見抜けない。あるいは、そうしても見抜けない。


多くのウェブサーファーと同じように、初めて訪れたウェブサイトでは真っ先にプロフィールを読むのだけれど、そこに書かれている外見、学歴、職業、年齢などというものがどのようなものであれそれで僕は人を判断しないし、ブログを開設している場所がアメーバだろうがはてなだろうが、ジュゲムであろうとモバイルタイプであろうと、あるいはトラックバックもコメントも許可していない形式の書き綴り方であろうと、例えサラ金やエロサイト、オンラインカジノのA8netが張られていようと、それによりブログを評価したりはしないし、値踏みをしたりは行わない。

例えばそのブログの表題が「SEX的思考」とかそういう非常にいかがわしく反社会的な表題であり、また露出狂にも勝るくらいの非常に如何わしい顔写真というラベルを貼り付けてあったとしても、僕はその過去ログを全て読んでからその人のトラックバックと文章とその背景とを確かめてからよく考えて判断するし、その判断の後に「SEX的思考」のSはSEXのSではなくシステムのSであり、「SEX的思考」のEはSEXのEではなくエンジニアのEであり、「SEX的思考」のXというのは僕のSEXへのとどまる事を知らない戦乙女ヴァルキリーと欲望と欲求とぐら乳頭と未知と希望と憧れと妄想とが複雑に絡み合って作り出した幻であったと判明する位に日々よろしくやりたい、よろしくやりたい。ああー。もう羊でも鶏でもいいや。多分話せばわかるだろ。凄くよろしく。よろしくよろしく。

人間の価値は見てくれでは決まるものでは無いと考えているし、見てくれで決まらない世の中であれば良かったと僕は望み希望している所である。それは真性引き篭もりの大本にあるものであり、違う人生を送ってきた人間であればラベルを重視するというのもあるのであろう。
それは理解出来ぬのだが、そのような人間が存在するという事は身をもって知っている。破れた布団の中にすら、完璧な世界は無いのである。



つまりは、終わったという事である。
終わったというだけの話であり、終わったというだけのカテゴリーであったのだ。
それが激昂を伴ったものであったというだけで3投稿にも渡ってしまったのだけれど、あったのはおしまいだけであり、激昂は終わってはおらぬのだが終わったのだ。



相容れられぬものであり、表面張力を越えた分水域ではあるのだけれど、ブロックブログには逃げ出す手段は用意されておらぬし、わたくしやかな事情を持ってブックマークを差し替えさせるほどの傲慢さも持ち合わせていない。
失望したのは事実であるのだが、失望するのにはなれているし、失望させまた失望させ続けているのであろうけれど、失望させる事にも慣れているのでもはや、なにも感じない。10日前も1年前も変わらぬ部屋で変わらぬゲームを続けてた僕は、10日後も1年後も変わらぬように失望し失望させ、それになにも感じないを歩いてくたびれ続けるであろう。


それは悪夢のようにも思えるのだが、もはや何も感じない。
全て終わったのだ。
おしまいである。