2005年3月8日火曜日

老人の話はつまらない



「君の話はつまらない」と、面と向かって言われた事が無いのは、僕の話が面白いからでは無くただ単に、面と向かって物を言われた経験が無いというだけの事である。


つまらない話であると言われているものの筆頭に、政治家の話というものがある。
二段落目をこのように書き出したからといって、政治家のつまらない話を書くわけではなくただ単純に、つまらない話を書くのである。

他にも、色々ある。
老人の話はつまらない。
坊主の話はつまらない。
上司の話はつまらない。
教師の話はつまらない。
若者の話はつまらない。
子供の話はつまらない。
女の話はつまらない。

そのようなものの覧に「引き篭もりの話はつまらない」というものが無いのは、引き篭もりの話が面白いというわけではなくただ単に、引き篭もりというものは話をしないからである。


引き篭もりの話が面白いかつまらないかという事に関してはよくわからないのだけれど、真性引き篭もりというものがつまらないという事は確かである。

つまらない朝に目が覚めてつまらない尿意を催し、つまらない我慢をしてつまらない頃合につまらない食事をつまらなく食べる。つまらないゲームをしてつまらないウェブサイトを巡りつまらないブログを読む。つまらない悩みを抱えてつまらない結論に達し、つまらない文章を書く。やがてつまらない朝が来て、つまらないから眠ろうと思うのだけれど、つまらない物音に緊張し、つまらない恐怖に取り付かれて眠れない。やっとこさ恐ろしい出来事の全てを脳みそから追い出す事に成功して眠ろうとすると、つまらない学童の声にそば耳を立ててしまい、「学童の話はつまらない」というつまらないつまらないし、つまらない眠りにつく。
実につまらない。
退屈に溢れている。



では、面白い一日というものはどのようなものであるのかと少しばかり考えた。
おそらくそれは、面白い朝に面白い尿意を催し、面白いゲームを遊んで面白いブログを書き、面白いウェブサイトを巡って面白い眠りにつくといった、実に面白く驚きに満ち溢れたものを指すのであろう。
そのような一日を送ってみたいと思い、それを僕が送れぬ理由を考えた。

それはもう明確であり、明確であった。
つまらない一日などというものは存在しないのである。
同じく、面白い一日というものも存在しないのである。
世の中にはつまらない人間と面白い人間という、二種類の人間がいる。
ただそれだけの事である。




つまらない人間は何をしてもつまらないし、面白い人間は何をしても面白い。
これを話というものに当てはめると、老人の話がつまらないというのは間違いで、老人はつまらない、より正確に言えばつまらない老人がいるというだけの事である。

つまらない人間の話はつまらない。
つまらない人間の話はつまらない。
つまらない人間の話はつまらない。
つまらない人間の話はつまらない。
つまらない人間の話はつまらない。
つまらない人間の話はつまらない。
つまらない人間の話はつまらない。
こうしてみるとわかりやすい。当然である。
つまらない人間の話が面白いわけがない。



だからといって、
「インターネットもアウターネットもつまらない話で満ち溢れているんだね。」
という答えを導き出してはいけない。

つまらない話というものは存在しないのである。
同様に、面白い話というものも存在しないのである。
世の中にはつまらない人間と面白い人間という、二種類の人間がいる。
ただそれだけの事である。





それがつまらないものであるのか面白いものであるのかを判断するのは人間である。
面白い人間であればなんだって面白いと感じるし、つまらない人間であればなんだってつまらないと感じるものである。

峠の先の灯台の下の手摺の台座に踏み乗って、曇り空の間から洋上へと差し入る光の帯は、つまらない人間にとってはつまらない風景であるし、面白い人間にとっては面白い風景である。

数字と数字の難解式が延々と並べられた神の書物の本棚は、つまらない人間にとってはつまらないものであるし、面白い人間にとっては面白いものである。

2つめの目覚まし時計に叩かれて、片手で歯ブラシを磨きながら片手で顔を拭い、片手でトーストを食べながら片手で紅茶を飲み、片手で鞄を持ったまま片手でノブを回して始まる一日は、つまらない人間にとってはつまらない一日であるし、面白い人間にとっては面白い一日である。


つまり、つまらない人生だとかつまらないテレビだとかつまらないインターネットだとかつまらないブログだとかつまらない真性引き篭もりなどといったものは存在せず、つまらない人間がいるだけである。
逆に、面白い人生を送りたいといならば面白い人間になればよい。


面白い人間になれば、面白い朝が面白い昼下がりが面白い夜が面白い夜更けが面白い目覚まし時計の鳴る音が、面白い家族が面白い友が面白い同士が同僚が、面白い出会いが面白い別れが、面白いテレビも面白いラジオも面白いブログも、面白換気扇、面白扁桃腺、面白消灯時間、面白急須、面白生きると面白死、その他全ての面白いが手に入る。

これを間違ってつまらない人間になってしまえば、面白人間であれば享受出来る事柄の全ては失われ、つまらない朝が来てはつまらない昼下がりまでつまらない時間を過ごし、つまらない夜を待ってはつまらない夜更けを過ごす。つまらない家族がつまらない出来事を呼び覚まし、つまらない友がつまらない記憶を刻み込む。つまらない出会いはつまらないまま別れを呼ばず、つまらないからと逃げ出そうにも行く宛てが無くつまらない。つまらないテレビも今は無く、つまらないラジオを耳にもせずに、つまらないブログとその他諸々のつまらないが積み重なる。


つまらない人生を送りたければつまらない人間になればよいし、面白い人生を送りたいのならば、面白い人間になる方法を見つければよいのである。
しかしながら残念な事にお知らせに、面白い人間になる方法というものは未だ発見されてはいない。しかも、面白い人間がつまらない人間になった例だとか話しだとかはそこいらじゅうに転がっているけれど、つまらない人間が面白い人間になったという話は聞いた事がない。


1度つまらない人間になってしまうと、なって精々つまらない面白人間である。
面白人生を望むのならば絶対に、つまらない人間になってはならぬのである。





結局の所、老人の話がつまらないというのは間違いで、「老人の話はつまらない」といった類のエントリーを書くつまらない人間がいるというだけの事である。
そのような、つまらない人間にだけはならぬようにしたいものである。