2005年5月6日金曜日

終わったものと終わった人と、終わったと主張する人達と。

大相撲は終わった。
Jリーグは終わった。
プロ野球は終わった。

終わったと言う人がいる。

紅白歌合戦は終わった。
本田技研工業は終わった。
ロックンロールは終わった。

事実、それらは終わったかに思える。

羽生善治は終わった。
ビルゲイツは終わった。
ダウンタウンは終わった。

そうだ。終わったのだ。
けれども、終わってなどいない。

1つだけ確かな事。
それは「終わった」と言う人間を絶対に信用してはならないという事だ。





終わらせる人々はどうして終わらせるのか。
それは、終わりには実利が伴うからである。


かつて輝いていたもの。
かつて存在していたもの。
かつて力を持っていたもの。

それらを終わせれば、2種類の人達を同時に満足させる事が出来るのである。
不満を抱き、快く思っていなかった人達と、愛し愛で、快く思っていた人達である。
つまり「終わった」という事はほぼ全ての人達を満足させる事が出来るのである。



例えば、「読売巨人軍は終わった」。

材料はいくらでもある。
V9、視聴率、イチロー、ワールドカップ、渡辺恒夫、斎藤桑田槙原、NHK、駒田徳則、古田敦也、長嶋茂雄、FA、松井秀樹、王貞治、ダリルメイ、河原純一、清原和博、新庄剛、セパ交流戦、栄養費、飛ぶボール、ステロイド。

それらを利用して「読売巨人軍は終わった」と言う事は、読売巨人軍に不満を抱いていた物の溜飲を下げ、また同時に過去の読売巨人軍を愛していた人の郷愁を呼び覚ます。
タブロイド誌やワイドショーが「あの人は終わった」「あれは終わった」終わった、終わったとよくやるのは、「終わった」が非常に強力な見下し兵器の優越だからである。


「終わった」の悪質さは、「過去に存在していた事を証明し確認した上でのこれからの否定」にある。認めよう!凄かった!ほんとう!けど、終わったよ!と。

過去に存在していた事実を確認されると、誰もが「そうだね」と、油断する。そこで「終わった」を持ち出されると、それがデタラメの論理破綻であったとしても、持ち越された「そうだね」が説得力として機能してしまうのである。




例えば、「モーニング娘は終わった。」。
ナインティナイン、紅白歌合戦、後藤真紀、中澤裕子、浅ヤン、石黒彩、福田明日香、後藤真紀、100万枚、小学生、ミニモニ、松浦亜弥。興味も知識もまったく無い人間でも「終わった」ならば簡単に書ける。だから終わりは量産され続けるのである。

挙句の果てには「最初から存在していなかったようなものだ」などと来る。
言いたい放題好き放題、言葉の暴力やり放題である。




終わった主義者達は、終わらせたいから終わらせるのである。存在して欲しくないもの、気に入らないもの、自分自身が受け入れがたいもの、それらを妬みとやっかみから強引に終わらせるのである。
許せない。そんなの嫌だ。認めたくない。どうにかしてそれを否定したい。
そんな時に「終わった」は最も魅力的な攻撃手段なのである。


終わったと主張するのに終わった事を証明する必要は無い。
終わったと言う為に必要なものは、「過去に存在していた事の証明」だけである。そのくらい、誰でも、今すぐ、簡単にだ。


特定の1要素がピークを迎えた1局面を引っ張り出して「存在していた」と定義し、それがピークを過ぎた事を指摘すれば「終わった」と言えるのである。




任天堂は終わってしまった。
ディスクシステム、プレイステーション、ドラゴンクエスト、四角ボタン、ルイージマンション、ゲームボーイ、同人誌事件、バーチャルボーイ、スーパーマリオRPG、ポケモン、シアトルマリナーズ、山内溥。


もうあの頃にはもう戻れないねと、夕焼けの後の夏祭りを語るように張り詰められた紐を弾いて緩ませ、理想と現実の乖離を感傷的に語る行為が「終わった」という言葉を付け加えるだけでいかにもな説得力を持ってしまう。


「終わった」は、「これまで」を否定すると同時に、「これから」をも否定する事が出来る。「終わってしまったのだからもうこの先は無いようなもの」沈み行くのを見守るだけさと、蛍の光を奏でて言う。
たった1つの要素のピークの過ぎ去りが、いつの間にか終わりへとすりかえられてはなんとなく、整然とした説得力に成り代わり、これまでもこれからも否定されてしまうのである。まったく、たまったもんじゃねえ。悪魔の実の蛍の光主義者め。





彼らが「終わり」と呼ぶものは何か。
それは、変化である。

変化についてゆけず受け入れる事が出来ない。だから否定するのである。
しかもそれは簡単で、どんな馬鹿でも書ける上に数多くの実利を伴う。
また、「終わっていない」と言う事は終わったの数十倍の労力を必要とするので、まともな反論も受けない。たとえ受けたとしても、ねじ伏せられるくらいの破壊力を持つ。


彼らが終わらせたいのは、自分が気に入らない他の誰かが気に入っているものを否定したいのである。その為の最も有効で卑怯な攻撃手法として「終わった」を用いるのである。嫉妬の仕業の所業である。
結局のところ逃げである。勝ち逃げ主張である。
「終わった」とは、勝ち逃げでしかない。

けれども、責めるのは筋違いである。
彼らは変化の次に来るものを受け入れられないか、気がつかないか、理解出来ない、時代に取り残された仲間外れの哀れで惨めな捻くれ物なのだから。




あー、もういいや。ハイハイ、もうこの話はやめ。のんきにブログなんて書いていられる程暇じゃあないし。ばっかみたい。あーあ、まったくくだらない。おしまい。おしまい。












終わった?
  終わってない。

変わった?
  変わってくよ。

悪い方に?
  良い方に。